古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

[x]のかつての恋は夢幻泡影たるものである(後編)

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第七章

 

いよいよ、成幸くんとのデート当日。待ち合わせは、18:45にお店に直接、ということになっている。お店は成幸くんのおすすめだというレストラン。事前にネットで調べてみると、なんともまあ、小洒落たイタリアンなのだ。いつのまにこんなにセンスがよくなったのか、と驚く。でも、きっと、奥さんとのデートで磨かれたもの、なんだろう。わたしは少しだけ暗くなりかけて、すぐにぱっぱとその考えを打ち消すように、首を振った。今は、16:32。まだまだ、家を出なければいけない時間ではない。けれど、時間はかかっていてしまって。どの服装にすればいいのか、ああだこうだと悩んでいるのだった。清楚な雰囲気がいいのか。少し冒険してセクシーな雰囲気がいいのか。お姉さんっぽくしたほうがいいのか。などなど。つまるところ、成幸くんはどちらを喜んでくれるのか、ということに尽きるのだけれど。そして、大きな論点がもう一つ。それは……下着だ。先日、いわゆる勝負下着的な、真っ赤で扇情的なものを購入した。そんなことを、まったく期待していないのか、と言われれば……嘘になって、しまうのだ。奥さんがいる男性と、そうなってしまったら、かなりよろしくないことくらい、わかっている。だけどその理屈とは別に。成幸くんともっと親密になりたい、そう思ってしまう気持ちが……ないわけがなくて。その時だ。ふと、昨日行きつけの喫茶店の女性マスターと交わした会話を、わたしは思い出した。

 

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朝早くから研究室の用事を手伝っていたわたしは、長めの昼休みをもらっていた。早めに学食で食べてしまうと、行きつけの喫茶店、銀星珈琲というのだが、そこでゆっくりすることにしたのだ。ブレンドコーヒーを頼んで、すぐには飲まずに、香りを楽しんでいて。なんとなくだ、なぜか、成幸くんと出会ったばかりのことを、思い出していた。
『おまえらのこと幸せにしてみせるから、俺を信じて付き合ってくれ!』
そう、進路に関する成績大不振だったわたしとりっちゃんにそんな言葉をかけてくれて。それが、教育係となった、成幸くんとの、大切な思い出のスタートだった。……幸せ、か。今でも、彼はわたしを幸せにしてくれるのかな。そんなことを、考えてしまう。そもそも、わたしの幸せは、誰かに与えられなければいけないものなのだろうか。ふうっと、大きなため息をついてしまう。生産的じゃないなあ、と思いつつ、だ。
「めずらしいね。あんたがそんなため息をつくなんて」
背筋がぴんと伸びて、ぴしっとしている女性店主に声をかけられた。綺麗なグレイヘアを一つにまとめている。視線は鋭い。とてもかっこいい、おばあちゃんなのだ。雑談を、たまにすることもある。
「……あ、いや。ちょっと……」
とはいえ。わたしの今の悩みは雑談にのせられる軽さではないので、あはは、と笑ってごまかした。
「ため息の理由。誰かに吐き出したいんじゃないかい?」
どきっとする。この人は、端的に核心をつくことが多い。年の功だけではない、人をよくみていて、その心の裡をよくわかっているのだ。
「大丈夫、です」
そう、少し小さい声で答えた。目はあわせられない、伏目がちになる。いろんなことが、見透かされていそうで。
「……いまから独り言をいう」
そう、マスターは言った。わたしに向けての言葉ではない。返事もなにも、不要。嫌なら聞き流しなさい。そんな意味合いなのだろう。一流の気遣いだ。
「悲しい恋は女を美しくする。美しくなりたい『だけ』なら、そうすればいいさ」
どきん、と大きく心臓が跳ねた。悲しい、恋……。
「だが、そんな恋には後ろめたさもあるだろう。そんな恋を続けている限りはね。心は卑屈になっていく。まわりが見えなくなっていく。自分が大切にしてきたものさえ……わからなくなってしまうものだ」
「……」
「自分を、自分の力で幸せにしたいのならば。わかっているはずだよ、みんな。その『答え』を実行するには、『勇気』が必要だがね」
わたしは、口を開きかけて、慌てて閉じる。思わず、聞いてしまいそうだったからだ。どうすればいいんですか、と。
「邪魔したね。ごゆっくり」
それだけ話すと、マスターは立ち去っていく。厳しく突き放されたような気持ちがした。その後ろ姿に向かって、わたしはぺこりと小さく頭をさげた。

『勇気』という言葉が、やけに耳に残った。もしかしたら、わたしに一番欠けているものかもしれなくて。コーヒーをまた口にしたものの、さっきより、香りも味も薄い気がしてしまった。その理由は、わかっているつもりだが、深く考えることは、やめた。わたしは……。

 

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いけない。慌てて思考を現実に引き戻した。やりとりのことは、ぐっと頭の隅っこに押し戻した。

今は、好きな人のことだけ、やっぱり考えたいのだ。うん、とひとつ、決断をした。赤い下着は身に纏うことにしたのだ。そういうことにならなくてもよくて、それとは別に、自分に気合いを入れたいから。抱いてもらってもいいくらい、好きだよ!そんな、容易に言葉にできない想いごと、身につけたいから。さあ、支度を急ごう。

 

第八章

 

なんて素敵なお店だろう!外観もモダンなつくりになっていたし、中に入ってまたその思いを強くした。調度品のセンスがいいし、きびきび動き回る店員さんたちも、すらりとして顔立ちの人ばかりだ。そして、間接照明の明るさがお店を大人の雰囲気にしていた。それこそ、恋人同士のデートにぴったりだ。
「いらっしゃいませ」
感じのいいお姉さんに声をかけられる。
「あの、唯我で予約してある……」
「唯我さま、ですね。こちらです」
優雅な足取りだなあ、と案内してくれるお姉さんの後をついていくと、こっちだよ、と成幸くんが手を挙げて待ってくれていた。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。わたしは、いろんな人の目がある手前、駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえて、できるだけゆっくりと歩き、席までたどりつく。
「それでは、ごゆっくりお過ごし下さいませ」
そういって店員さんは立ち去っていった。
「お店、すごくいい感じだね!……それに」
「それに?」
成幸くんも、かっこいい。品のある紺のジャケットに、麻の白地のシャツ、生地のよさそうな黒いズボン。シンプルなものの組み合わせだけれど、センスがよいと思うし、よく似合っている。
「成幸くん、お洒落じゃない。いい感じだよ」
かっこいい、とは気恥ずかしくて言えない、せめて、とほめる言い回しを変えてみる。成幸くんは、にこっと笑うと、
「ありがとう。でも、古橋こそ。……綺麗だよ」
綺麗、だって!!そんな一言がさらりと聞けるなんて思ってもいなかったので、小躍りしたくなるほどだった。軽いお世辞、なのかもしれない。それでも、だ。そんな言葉をかけてもらえるかも、と思ってあれだけ悩んで準備をしてきたのだ、その言葉で報われただけではなくて、幸せのお釣りがくるくらいだ。わたしは、ベージュのリネンジャケットと、青というよりは水色に近いワンピースを合わせた。左手には、ブレスレット。軽めの香水も身に纏い。そして、下着も、例のものを。自分でも可笑しくなるほどに、本気のわたしだ。でもね。好きな人との、デートなんだから。やれることは、全部やりたかった。
「古橋は青、似合うよ」
またまた、そんな嬉しいことを言ってくれて、にやにやがとまらない。
「ふふふ、ありがとう。成幸くん、随分女の子を褒めるのが上手くなったね」
と、つい思ったことがそのままぽろりと口をつく。
「……最近は、妻にそういうこと、言ってないかな。結婚すると、いろいろ変わるものだから。自分も、相手も」
そう、寂しそうに言う成幸くん。そういうもの、だろうか。少しだけ、違和感みたいなものを感じたけれど、声のかけ方がわからなくて。成幸くんは、小さく息を吐くと、わたしに笑いかけながら、
「古橋とは、昔からずっとなんでも言いたいこと言えてさ。昔も今も、一緒にいて楽しいよ」
と、照れながらそんな言葉をかけてくれた。
「……どうした?顔が真っ赤だけど、大丈夫か?」
「ううん!なんでも、なんでも……ないから」
胸が強く強く締め付けられてしまうのだ。成幸くんの、まっすぐで優しい一言に。また、好きにさせられてしまうじゃない。
「じゃあ、まずはワインでも頼もうか。料理はコースなんだけど、好きな料理があれば、別で単品を選んでもいいし。どれもとても美味しいから。だけど……」
「だけど……?」
「古橋には、量が足りないかもな!」
「もう、成幸くんのいじわるっ!」
あはは、と2人して声をあわせて笑って。そうして、忘れられない2人の夜がはじまったのだった。

 

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ワインが、とても美味しい。アンティパストであるカルパッチョとあわせて、一口、二口と飲んでしまう。口当たりが軽くてさっぱり。
「女性におすすめなんだよ。料理を引き立ててくれるみたいでさ」
「すごいね……詳しいんだね!」
「いやいや。最近、買って家で飲むことが多いから。ひとりでだけどな」
「……成幸くん、大人の男性になっちゃったね。不思議」
「大人、かあ。結婚もしたけど、実感湧かないこともあるよ。古橋は……俺のお姉ちゃんだから、もう大人ってことか?」
からかうようににやりと笑いながら、懐かしいことを成幸くんは言ってくれる。
「お姉ちゃん、か。成幸くんを無理矢理弟にしたんだよね。ふふ、懐かしいな……」
「旅館で一緒に泊まったんだよな。すごく、緊張したよ。異性の同級生と同じ布団で寝てたんだから」
その時かもしれないんだよ?わたしが、あなたに恋をしたのは。とても楽しく、嬉しく。酔っている自覚は、ある。であればこそ、理性よりも思ったことがほぼそのまま出力されそうで。そんなことを、さらりと伝えたくもなった。
「……あの時、朝さ。抱きしめてしまってた。わるかったな」
「ううん。わざとじゃ、ないんでしょ?しょうがないよ」
「もしも、意識してたとしたら、どう思う?」
「え?」
小さな声で聞き取れず、わたしは聞き返した。
「……いや、ごめん。なんでも、ない。ほら、ワインもう一本頼もうか」
「そうだね!」
プリモ・ピアットとしてのボロネーゼ、セコンド・ピアットとしての子羊のステーキ……次々運ばれる美味しいお料理、ワイン。弾む会話。何よりも、だ。……好きな、人。わたしはこの時、たしかに幸せだった。幸せすぎた、のだ。

 

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ドルチェ、いわゆるデザートはティラミス。甘すぎない、でも食べていて満足する、絶妙な味付けだ。上品。おなかいっぱいなはずなのに、ぺろりと食べてしまった。
そんなわたしを、にこにこと成幸くんは見ていてくれて。
「俺のも、食べるか?」
と、そんな言葉をかけてくれた。
「いいよいいよ、成幸くん食べて。美味しいよ?」
「古橋が美味しそうに食べているところ、昔から好きだったからさ。食べて欲しいんだよ」
今夜何度目かわからない、嬉しい言葉だ。
「……じゃあ、頂戴?」
自分でもわかる、とても、甘えた声になって、成幸くんがにっこり笑ってくれた。

成幸くんとの距離が縮まった。いや、縮まりすぎているような気すらして。それでいいの?そう、誰かに問われる。わたしは、すぐに聞こえないふりをした。成幸くんに優しく見守られながら、わたしは女の子らしく丁寧にふたつめのティラミスを食べたのだった。

 

第九章

 

最高の思い出をくれた、お店を出る。お会計は割り勘にした。成幸くんが、俺が社会人で古橋は学生なんだから、全部払うよと主張したのだが、軽く酔っていたわたしは、からむように、わたしがお姉ちゃんなんだからね!と言い返して、しょうがないな、文乃姉ちゃんは、と笑いあった、その結果だ。もう少し一緒にいたい。……いや。少しといわずに、もっと、もっと、もっと、だ。自分が強欲になっていくのがわかる。でも、お酒のせいでもあるよね、と大胆に振る舞いたくもあり。
「そこの公園さ、夜景が綺麗なんだ。酔い覚ましにさ、少しいってみないか?」
と、なんと成幸くんから誘ってくれて。
「うん!いこいこ!」
わたしが断れるはずもなく。肩を寄せ合って歩く。2人の距離はいつになく近い。体温が伝わってきそうで。……たまに触れ合う成幸くんの身体と繋がりたい、とすら、今のわたしは思ってしまうほどに、気持ちが高まりすぎていた。少し見通しが悪い木立を抜けて、開けた広場に出ると、広がっている。素晴らしい、夜景が!きらきらとしている光、光、光。青、赤、白、たくさんの色が織りなす巨大な建造物、高層ビル、観覧車、レインボーブリッジ。その幻想的な光景に、わたしはすぐに言葉が出ない。
「ベンチに座ろうか」
と成幸くんに言われるがまま、わたしと成幸くんは並んでベンチに腰掛ける。やっぱり、ほとんど密着して、だ。成幸くん、成幸くん、成幸くん。コップが溢れそうだった。好意がもう溢れてしまえば、もう後戻りはできない。だけど、だ。
「綺麗……!」
夜景について、月並みだがようやくコメントができた。
「だろう?綺麗な女性と一緒だと、余計にそう思うよ」
と成幸くんはいってくれるが、雰囲気からこれは冗談だな、と伝わり。
「キザすぎるね。できすぎだよ!」
と笑顔で指摘してあげた。
「あれ、きまらなかったか?」
と言う成幸くん、あはは、と2人でまた笑い声をあげる。
「こうやって、ベンチに並んで座ったこともあったよな」
高校三年生の秋のことだ。わたしが忘れるはずがない。成幸くんへの気持ちを、隠しきれなくなっていた頃で。彼に寄り添って、身体の熱を、伝えた。……今夜は、どうなるだろうか。もっと、近くで、熱を伝え合うことになるのだろうか。……彼に、大好きな彼に……抱いて、もらえるのだろうか。慌てて前のめりすぎる願望にブレーキをかけつつ、わたしは慌てて次の言葉をかけた。
「学校でも、そうだったよね。ほら、校舎裏のドアの前で」
「ああ、よく相談にのってもらっていたもんな」
「……俺さ、本当は……」
「……?」
成幸くんが、少し言い淀む。夜風が、吹いた。風に撫でられる。空気が、変わり。成幸くんの目には、熱があった。その熱は、わたしが欲しかったものだった。


「古橋は、今、好きな人いるのか?」


「……えっ、と」


女の直感だった。


たぶん、今ここで。あなたが好きだよ、と答えれば。わたしは、全てを手に入れる未来を選べる。それが、目の前にあった。あの夢を、夢でなく、現実に変えられるのだ。

 

キスをしてもらえる。

 

そして、きっと、わたしが望めば、……抱いてさえ、もらえる。

 

愛しあえる。

 

火照った身体と、ふわふわした頭の中と、目の前の大好きな人。わたしの全てを捧げたい人。もう、とめられない……。

 

あなたが、すき。

 

そう、言葉にしかけて。

 

その時、あることに気づいた。その一瞬が、わたしの運命を変えたのだ。

 

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成幸くんの左手の薬指から、結婚指輪がなくなっているのだ。わたしは正直混乱する。よい雰囲気に身を委ねていれば、それで望むもの全て手にはいったのだけれども。
「成幸くん、指輪……」
「……ああ。今夜は、古橋のことだけ考えたかったから」
そう、当たり前のように、そして、照れ臭そうに笑ってくれた。喜ぶべきシチュエーションだった。本来であれば。

 

成幸くんは、今夜、自分から奥さんの話は一切しなかった。わたしがふっても、すぐに違う話題に変えられた。

 

成幸くんは、わたしとの思い出をたくさんお話してくれた。わたしとの思い出『だけ』を。

 

成幸くんは、わたしのために結婚指輪さえも、外してきてくれたのだ。

 

……成幸くんは、わたしのこと『だけしか』考えていないのだ。

 

血の気が引くとはこのことだった。

 

優しくて、まっすぐで、お人好しで、誰のためにも一生懸命で、女心に鈍感。だから、わたしが好きになった成幸くんは。

 

もう、どこにもいないのだ。

 

出産を控えた奥さんをよそに、他の女の人にエネルギーを割くような人では、絶対になかったからだ。

 

「成幸くん、違う、違うんだよ……」

 

わたしは、目の前の優しすぎる男の人が急に怖くなってきた。それと同時に、自分の愚かさと後悔が、今更一気に襲ってくる。

 

『勇気』

 

その言葉を思い出した。

 

期待してしまったのだ。恋を続けてもいいんじゃないか。だからいろんなことが見えなくなって、いや、見ないようにしていた。

現実と向き合うことが必要だった。知っていたのだ。本当は、ずっとわかっていたことではあったのだ。

 

わたしの恋は、とっくに終わらせておくべきものだったことをーーー。

 

「古橋。俺、おまえのことが……」

 

わたしの心の裡などしらず、成幸くんは雰囲気が続いていると思っているのか、甘く、決定的に後戻りできなくなる台詞をいいかけていて。す、と聞こえかけたわたしは。


「それ以上、言っちゃだめだよ」


そう、口を挟んだ。これまでの甘い雰囲気とは一切そぐわない、冷たい、いや、冷たすぎる言い方で。心が醒めていくのがわかる。でも、感情は燃えるようで。熱い涙がわたしの頬をつたいはじめていた。


「……どうして、泣いているんだ?」


おろおろしてしまう成幸くん。わたしは、口説かれるだけではない、女心がつゆほどわからない目の前の男の人を怒鳴りつけたくなるくらい、怒りと寂しさでいっぱいで。


「わたしが、すきだった……人はっ!」


「……っ……ひっく……」


嗚咽が漏れる。涙が止まらない。感情の温度もまためちゃくちゃで。その温度差には、どんな物質も粉々になるんじゃないかと思いながら。


「もう……」


「どこにも、いない……から、だよ……」


わたしはハンカチで涙を拭いた。きっと、お化粧は相当崩れてしまっている。それでも、素顔のわたしで言葉を伝えたいのだ、うってつけだった。少し涙も落ち着かせて、言葉を続ける。


「あなたは、帰るべき場所に、帰って。そばにいるべき人のところに。わかるでしょう?」


成幸くんは、とても傷ついた顔をする。それでも、わたしは。

 

『勇気』を持って。

 

伝えるべき言葉があった。

 

「さよなら、成幸くん」、と。

 

「待ってくれ、古橋っ!」

 

ベンチから立ち上がり、その場を去ろうとするわたしの手を捕まえようと彼は手を伸ばしたが、わたしはそっとその手を振り払った。成幸くんはかなり混乱しているようだった。当然だ、あれだけ雰囲気のよい中で、あきらかに自分に気持ちを寄せてくれている素振りだった女性が、きっかけにきづけないまま、手のひらを返すような態度をとったのだから。

成幸くんを傷つけて。わたしもまた傷ついて。しかし、それはお互いの代償なのだ。

わたしが彼に好意を向け続けていたことも。そして、それを間違っていたものとして改めるべく行動したことも。全てが、わたしのわがまま。それであれば。今のわたしの心の痛み、自分でけりをつけた失恋の痛み全てを引き受けなければいけないことは、わかりきっていたことなのだった。

 

「さよなら」

 

そう、口の中でつぶやいて。呆然とする成幸くんを後に残して、わたしはその場を足早に立ち去る。けっして、振り返ることなく、だ。

 

自分でしっかりと輝ける星にならなければ。

 

そんなことを考えながら。

 

おわりに

 

「ふう……こんなものかな?」
わたしは、かつての自分の部屋を片付けていた。わたしはすでに結婚して家を出ていたのだが、お父さんが仕事の関係で北海道に引っ越すこともあり、住んでいた家は売り渡すことにしたのだ。その前に、持ち帰りたいものがあれば見ておきなさい、とお父さんに言われて、見にきたのだが。ほとんど持ち帰りたいものはなさそうだ。大学生の時に一人暮らしをはじめた時に、大事にしたいものは大体持っていっていたからだ。何気なく、昔使っていた机に座ってみた。よおく勉強していたな、と思う。何気なく、引き出しをあける。そこには、たくさんのノートが並んでいた。
「あ、これ……」
それは、高校生の頃の教育係だった彼が、一生懸命わたしや友達のためにつくってくれていたものだった。彼のおかげで……天文学で食べていけるめどがついた今のわたしはある。感謝しかない。少しだけでも持ち帰るか、と一瞬迷ったが……。
「このまま、かな」
一冊残らず、処分してもらうことに決めた。思い出す。博士課程の頃だったか、偶然再会した、すでに結婚していた彼に、また想いを寄せてしまったことを。あの後、電話やメッセージがたくさんあったけれど、わたしはもう、二度と返信することはなくて。そのうち、ぱたりと連絡は途絶えた。風の噂で、2人目の子供も産まれて、仲の良いことで有名な家族なのだという。本当によかった、と思っている。わたしだって……。かちゃっと部屋の扉が開かれた。
「文乃さん、大丈夫?なにか手伝う?」
そう、わたしの旦那さんに声をかけられた。
「大丈夫。最後、少しだけ余韻に浸りたいから、一人にしてもらっても、いい?」
「わかった」
大柄で一見いかついものの、瞳は可愛らしい、とても優しい人だ。他の大学で天文学をやっている人。少し年上。しっかりと恋愛をして、その結果、結婚をした。もう、例の彼と重ねることはなかった。
「わたしも、ちゃんと幸せだよ」
なりゆきくん、と、言葉にせずに、口の中だけで彼の名前を呟いた。2人の道はもう重ならないだろう。でも、数多ある星のように、お互いにどこかで綺麗に輝いていることを、心から祈っている。

 

(おしまい)

 

 

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