古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

[x]のかつての恋は夢幻泡影たるものである(前編)

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第一章

 

リリリリ…………目覚まし時計の音がわたしを心地よい眠りの世界から現実へと引き摺り出す。何の変わり映えもしない、退屈とまでは言わないまでも、ただただ特別な意思もなく流される、そんな日常へと。

わたし、古橋文乃は、博士課程の一年目となっていた。天文学は相変わらず面白い。ただ、昔ほどの情熱が最近なくなってしまっているようで。そのことを研究室の先輩に相談すると、あなたは恋をしたほうがいいよ、と半分冗談、半分真面目に言われてしまった。
「ときめきが足りないんだよ。あなたは美人なのに浮いた話が少なすぎるんだから。いろんな経験をしたほうがいい、とも言えるかな。今、好きな人とかいないの?アプローチしてみたら?もしくは、好意を向けてくれている人はいないの?デートくらいしてあげたら、何か変わることがあるかもよ?」
とのこと。その場は愛想笑いでお茶を濁したが、少し、腹がたってもいた。お言葉ですが先輩、本当の恋を、ときめきを、あなたは知っているんですか、と。本当の恋をして、ときめきを知ってしまったのなら、簡単に次の恋を上手くできるわけないですよ、と。

わたしは、ある。断言できる。叶わなかったけれど、恋をしていた高校生のあの頃。甘く、友達との板挟みで辛く、それでもなお、甘かった、そんな恋だった。まさか、そのことが、繰り返されるなんて、今朝のわたしは思いもよらなかったのだった。

 

⭐️

 

その日は、七月最後の金曜日だった。わたしは四月から、都心のプラネタリウムでアルバイトをしていた。勉強漬けの日々だったので、少し視点を変えて、気分を新たにしたくもあり、始めたものだが、正直なかなか面白い。新しいプログラムづくりという花形の部分にも、天文学専攻の学生ということで、意見を言わせてもらって採用されることも楽しければ、見終わった後で楽しそうに出てくるお客さんの顔を見ることも嬉しい。星のことに興味や好感を持ってくれる人が少しでも増えてくれるのならば、こんなにありがたいことはないのだ。

そういえば、あの人もそうだった。星のことをいつのまにか勉強してくれていたのだ。星について語るわたしに触発されたのだ、と照れ臭そうに言ってくれたあの表情は……なかなか、忘れられないものだ。実は、それ以外の彼に纏わる思い出自体もそうなのだけれど。忘れたほうがいいことくらいはわかってる。わかってはいるけれど……。
「……はしさん。古橋さん?」
「……すいません!」
アルバイト中だった、つい考え事をしてしまっていたわたしは、慌てて頭を切り替えた。アルバイトのリーダー格であるおばさんに怪訝な顔をされたが。
「この前伝えていたけれど、今から小学生の団体がくるからね。体験学習の一環らしいんだけど。さばくのが大変だけど、一緒に頑張りましょう!」
「はい。あ……」
わいわいと、元気な子供達の声が近づいてきた。ついつい、頬がゆるむ。子供達の喧騒というのは、嫌いじゃない。元気を分けてくれる気もするし。プラネタリウムを見た後の高揚している姿は、とても素直な反応で嬉しいからだ。
「おーい、静かに並んで。山田さん、ほら、列からはみ出さないで。ほら、プラネタリウムを見せてくれるお姉さんだぞ。みんな、挨拶な!」
若い男の先生だった。その人は、子供達に目をかけるのに必死で、こちらはちらりと見ただけでしっかりと目は向けないまま。聞いたことのある声。見覚えのある姿。
『こんにちはー!!』
大きな声で、子供達がわたし達に向かって挨拶をしてくれる。普段なら、ここでにこにこするのだけれど。でも今日の、この瞬間は、そんな余裕は吹き飛んでいた。引率している男の人から、目が離せず、平静さが保てない。鼓動が速くなっていき、とめられない。わたしの視線に気づいたのか、その先生もわたしを正面から見て。目を丸くされる。


「……古橋!?」


いつぶりだろうか。苗字を呼ばれただけで、嬉しくなってしまうこと。その人の名を、わたしは口にする。


「……成幸、くん」

 

思わぬ、再会だった。

 

歯車が噛み合って、動き出し始める音が聞こえた気がした。カチ、ガチ。ガチッガチッガチッ、と。わたしの理性というブレーキをやすやすと壊して、気持ちが勝手に走り始めようとしていた。とめられる自信なんて……あるはずも、なかった。

 

第二章

 

次の日は土曜日だ。普通の勤め人、例えば学校の先生とかも、お休みの日。わたしも、論文の執筆があるものの、そこまで急ぎでもないので、後日頑張ることにして。いろんなことを放り投げてでも、優先したい用事がスケジューリングされたからだ。とある人と、逢う予定。わたしは、ある男の人と2人で、その人の行きつけだという居酒屋に来ていた。
「久々の再会を祝して、乾杯!」
「かんぱ〜い!」
その人は、生ビールの入ったジョッキを持った右腕を、わたしはウーロンハイを持った左手を伸ばして、お互いのグラスをこつん、と合わせた。随分高揚しているな、わたし、と自分で思う。隠せない、とめられない、押し殺せない。その人と一緒にいられる、ドキドキが。

目の前のその人こそが、わたしが本気で恋をして、でも、結ばれることは叶わなかった、でも、忘れられない人。

 

唯我成幸くん、その人だった。

 

プラネタリウムのあの後。去り際に連絡先をばたばたと交換した。その夜のうちに、久しぶりに会って食事でもするか?というメッセージをもらった。もう、社交辞令だよね、とは思いつつも。高鳴る気持ちはあったまま、週末なら空いてるけどね、急だから無理だよね、と返信をしてみた。そのお返事がくるまでのわたしの緊張感ときたら!大学の合格発表の瞬間の比ではなかった。
『もしよければ、土曜日にどうだ?』
というお返事だったのだ。わたしは……。
『それじゃあ、いこっか』
と、文面上は平静に。だけど、ドキドキはすごくて、嬉しさが隠せなくて。今日のこの日を迎えた、というわけなのだった。

枝豆や大根サラダ、鳥軟骨の唐揚げなんかが並んだテーブルで、天気の話とか、最近見たテレビの話題でひとしきり雑談を交わした後のこと。
「最初に気づかなくてごめんな。髪、ばっさりと切ってるからさ」
おそるおそる、という感じで、そう切り出された。
「わからない、かもね。ふふふ」
と、あくまで軽く返事をした。そうなのだ。ずっと髪の毛を長いまま維持していたのだが、今はせいぜい肩にかかるくらいの長さになっている。きっかけは、何か。……誰にも言ったことはないけれど。成幸くんの結婚式に、参列した後なのだ。ちらり、と成幸くんの左手の薬指に光っている指輪を見た。彼は、わたしの大切な友人と結ばれて、結婚をした。風の噂では、もうすぐ子供が産まれる、ということだった気がするが。大学に入ったのと同時に連絡先を変えたわたしは、間接的にしかそういう話は聞こえないようにはしていたのだ。
「奥さんは、元気?」
軟骨の唐揚げをつまみながら、できるだけ自然さを意識しながら、聞いてみる。奥さん、と口の中で声に出さずに反芻もする。今更ライバル視することなど、何の意味もないのだ。さらに言えば、もともと勝負にすらなっていない。言うなれば、わたしの不戦敗。なぜなら、わたしは成幸くんに心の底から恋焦がれていたものの、そのことを、彼に告げることは、ついになかったのだから。
「ああ、元気だよ!今、妊娠していてさ。いろいろ大変だけど、義理のお母さんにほとんど住み込みで来てもらって、手伝ってもらってるんだ。おかげで何とかなってるよ。古橋の話をしたら、すごく懐かしがってたぞ。よろしくいっておいてくれってさ」
その人のことを思い浮かべる。結婚式の幸せで、輝きを放つくらいに思えた姿は、忘れられない。その時、心底祝福できていたか、どうか。そう聞かれると、苦しいものがある。胸にひっかかる何か……。嫉妬と、人は呼ぶのだろうか。そんな気持ちが、僅かでもないのか、と言われれば、嘘になるもの、だったから。
「わたしも会いたいな!高校生の頃の話、したいから」
精一杯の笑顔を浮かべて、わたしはそう答えた。
「えっと。古橋は、いい人、いないのか?」
「成幸くん!女の人にその質問はぶぶー、だよ!?まったく、相変わらず乙女心に疎いんだから。しょうがないなあ」
成幸くんを弟みたいに扱っていたことを、ちらりと思い出しながら、続ける。
「今は、そんな人、いないよ」
わたしは、言葉ほど怒っているわけでもなく、さらりとそう答えた。

一回だけ、男の人と付き合ったことはあるのだ。学部二回生の頃。熱心にわたしにアプローチを続けてくれていた人だった。悪い人ではなかった。あまり意識していなかったが、かっこいい水準ではあったようで、付き合ってから美男美女でお似合いだよね、と言われていることがよく耳に入るようになった。自分に自信なんてないこんなわたしに何かを見つけてくれたのだろう。ありがたく思わなくちゃ、そう思って何度目かの告白を受け入れたのだ。……でも、長くはなかった。3ヶ月で、わたしから別れを告げた。恋人らしいこと、手を繋ぐとか、キスをするとか、そんなことは何一つなく。相手に落ち度は何もなかった。優しかったし、わたしを大切にしてくれる姿勢に、嘘はなかった。わたしが、ダメだったのだ。わたしの心の矢印は、正しくその人の方向を向くことは一度たりともなかった。次第に興味すら持てなくなっていくばかりで。初恋の人ならこういう時、何て言ってくれるだろうか。そんなことばかり考えていては……うまくいくはずがない。

「学校はどう?先生になって、楽しい?」
そのこと自体思い返すのが嫌になり、話題を変える。表情で察してくれたのか、成幸くんもどこかほっとした様子で、そうだな、と言いながら言葉を続けてくれる。
「大変なことも多いけどさ、子供たちと一緒に成長していける仕事だよ。とってもやりがいがある。そうそう、この前のプラネタリウム、大好評だった。やっぱり星っていいもんだよな」
「でしょ!でもよかった、喜んでもらえて。わたしも、プログラムづくりに少し関わっているんだよ!」
「おお、凄いじゃないか!流石、古橋だな」
「えへへ。秋の空のね、フォーマルハウトを中心にお話を考えてみたんだ」
「南の一つ星、だよな、たしか」
「よく覚えてるねえ。そうそう、それでね……」
お酒の力もあるのだろうか。会話がスピードをあげて弾みだす。まるで、高校生の頃に戻ったようだった。楽しくて、楽しくて、楽しくて。一生懸命星の話をするわたしに向けてくれる成幸くんの視線は優しいままだ。なんとかコントロールしたかったのに、わたしは自分を誤魔化すことがどんどんできなくなっていく。やっぱり、まだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『すき』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

湧き上がるその気持ちをうまく処理できないまま。成幸くんとの2人きりの時間は、あっという間に過ぎてしまったのだった。

 

第三章

 

「古橋があまり変わってなくてほっとしたよ。星の話になると、やっぱり早口になるんだな」
「成幸くんこそ。相変わらず乙女心がわかってないんだから!補習だよ?」
「そう、かなあ?」
といって、あはは、と成幸くんとわたしは声をあげて笑い合った。もう遅い時間だから、といって、うちの近くまで成幸くんは送ってくれているのだ。夜風が気持ちいい。火照った熱を、少しずつ覚ましてくれているようだった。お酒の熱なのか。恋の余熱なのか。それは、定かではない、のだけれど。さあ、もうすぐその場所だ。

 

魔法は、解けようとしていた。

でも、当たり前だ。成幸くんは、結婚していて、愛する人との幸せな生活がある。何かがどうなってほしい、なんて考えるほど、わたしは無邪気ではないのだ。とはいえ、寂しい。成幸くんにばれないように、小さくため息をつく。その時だった。
「あのさ、古橋」
「……?どうしたの、成幸くん」
「今夜は、ありがとう。すごく楽しかった」
言葉を選びながら、成幸くんは続けた。
「もし、古橋さえよければ……。また、会えないか?」
……まだ、魔法にかかったままで、いいのだろうか。それが、お互いにとって、本当にいいこと、なのだろうか。奥さんのことは?わたしは友達を裏切るのか?いろんなことが、頭をよぎりつつ。

……でも。だけど。それでも。わたしはこの時、一つの答えしか、持ち合わせていなかった。


「……うん」


喜びと安堵が混ざった表情を浮かべる、目の前の昔の想い人。ずきっと痛む。それなのに。昔の同級生とお食事にいくくらい、誰だってしてるものね。そんな言い訳が心に浮かんだ。

終わってしまった恋が再び動き始めようとしていた。その行方はわからないまま。わたしはその流れに身を委ねようとしていた。この時のわたしは、なにか、幸せなエンディングを期待してないわけでもなかったのだろうか。その幸せが、誰かの幸せと同じ意味にはならないことくらい、十分わかっていたくせに。

 

(中編に続く)