大学生というのは、存外に忙しい。
それを実感しながら、早くも三年が過ぎた。講義の予習に復習。研究室に入ってからはゼミやフィールドワーク。大好きな星の勉強だけど、簡単に身につくというものではなく。だけど楽しく。時間はあっという間。そして、いまや、就職活動が始まり、同級生は慌ただしい。
「あ、おつかれさま。そんなに急いでアルバイト?」
「古橋さん!久しぶりだねー!いやいや、就活で大変なんだよ〜。いまからまた面接なんだ。また今度ゆっくりご飯でも食べよう!」
と、こんな調子。仲の良いクラスメイトと手を振って別れる。
一方のわたしはと言えば。幸い、アルバイトで通い詰めていた、小さな出版社に雇ってもらえることになった。天文関係の雑誌や本を扱っているところだ。
わたしの星に対する熱意を認めてもらったことと。わたしが書かせてもらった、星と最近の大学生事情を絡めたコラムが思いの外好評だったこと。そういったことが決めてだったらしい。
大柄な女性の編集長が、君は昔のあたしに似ているからね、と豪快に笑いながら添えてくれた。何にせよ、必要としてくれるところで働けることは楽しみだ。
わたしはいま、大学の近くの喫茶店にいる。お客さんはわたし一人。ラッキーだ。入るに小さな鐘の音がなり、その音がお店の隅々まで鳴り響くくらいの、可愛いつくり。かっこいいおばあさんが、一人で切り盛りしている。たまに、おしゃべりを少しだけする。天花大学に近いだけあって、天文関係のグッズがとても上手に飾り付けてある。センスがいい。
コーヒーの味は、大学生で覚えた。お酒がぜんぜんダメな分、こちらに入れ込んだ格好。父が良く嗜んでいたこともあり、今では一緒に家でゆっくり飲むことも多い。多少コーヒーを作ることにうまくなった自負はあれど。やっぱり、ここのコーヒーが抜群に美味しい。付け合わせのチーズケーキもお目当てだ。
お店に並んでいる天文関係の雑誌を何気なく手に取ってみる。パラパラとめくり、投稿コーナーの写真に目が止まる。技術的にすごい、というわけではないのだけれど。撮り手の、その星に対する寄り添うような優しさが、凄く伝わってきたから。この星は、そういう気持ちにさせてくれるのだろうか。
「南の一つ星、フォーマルハウト…」
思わず、声に出す。大好きな星であるとともに。愛しくて、切ない記憶を呼び起こす、星の名前。少し宙を見上げる。随分と、懐かしい。
「何か、思い入れがありそうだね」
珍しく、店主から声をかけられた。声のトーンが、いつもより、優しい。
「あ、はい。…少し、懐かしくなって」
「あたしも好きだよ。秋の空で珍しく自己主張が強くて。死んだ旦那とよく眺めたもんさ」
店主は、静かに笑顔を浮かべたまま。
「そうなんですか…」
「おやおや、あんたが落ち込むところじゃない。それはそれ、いい思い出なんだから」
「年寄りの思い出話を聞くのは退屈だろう?」
「いえ、そんなことないです」
「ふふ、そうだろうね。あんたは、優しそうな子だから。嘘も苦手そうだ」
「思い出にね。年齢なんて関係ないんだよ。年寄りだろうが、若者だろうが。価値は等しい。」
店主は、少し間を置いて、続けた。
「星を誰かと眺めるということは、思い出になりやすいもんだ。良くも悪くも」
「年寄りからのアドバイス。忘れたい思い出はいつか必ず忘れられる。忘れるべきじゃない思い出は、どこかに必ずしまっておかれるもんだ。思い詰めた表情をするということは…それほど、刻まれてるんだろう。気楽に付き合いなさい。ありのままで、いいんだよ」
「…はい。ありがとうございます」
わたしの肩を励ますように、ぽんぽん、と二回叩いて、店主は厨房に戻っていった。思い詰めた表情、か。苦笑いするしかない。初恋の1ページ。ベタベタなお話過ぎて。確かにあの時、わたしは恋をしていた。それはもう、間違いなく。
あの日の夜のこと。2人で並んで星空を見た。忘れてなんかない、今でもはっきり思い出せる。満天の星、星、星、だった。
彼は、思いがけず、星のことを勉強してくれていた。それが、とても嬉しくて。わたしは、ついつい、子供みたいに、星のことを一生懸命話してしまった。
そして、彼からの精一杯の励ましのおかげで、お父さんと向き合い、夢に向かう勇気をもらったのだ。
その夜。わたしは彼に身体を預けた。寄り添って…夜明けまで、一緒に。いろんなしがらみはわかっていた。わたしの大切な友達が彼のことを好きなこと。でも。そうせずにはいられなかったから。
振り返るたびに。何と言えばいいのだろうか。うまく言えないのだけれど。叶わなかった恋の割には、大切にとってある。悲しい訳でもないし、苦しいわでもない。少しだけちくりとするんだけど…甘い気持ちもまた、思い出せてしまうのだ。
「ごちそうさまでした」
お会計の時に、店主が優しい視線を向けてくれていて、胸がほっこりしながらお店を出た。秋だからか、少し風が冷たい。冷たい、と言えば…彼の手も、そうだった。彼。そう、唯我成幸くん。いまは、どうしているのだろう、とふと思った。高校を卒業して以来、わたしは会っていない。会えるチャンスは何度かあったのだけれど。正確には、会わないようにしていた、だ。わたしの恋は叶わなくて。で、あれば。もう、会ってはいけないんじゃないか。そう、思ったからだった。
あれから、恋はしていない。わたしが誰かを好きになることはなかった。わたしに好意を寄せてくれる人は何人かいたのだけれど、断った。別に、彼のことを引きずっている訳ではないのだけれど。わたしの中では、あの頃のように、恋に全力になるには、少しエネルギーがかかりすぎるから。次、恋をすることが、いつになるかは、わたしにはわからない。したいとも思っていないから、当然なのだが。
考え事をしていると、すぐに駅に到着した。帰宅時なので、ホームは混み始めている。わたしはホームの隅っこで、ふとスマホの電話帳を見てみる。あ行、か行…や行。唯我成幸くん。まだ、残っている。当たり前だ。わたしは、この連絡先さえも、消そうかどうしようか散々迷ったのだ。その結果、決心できた時に消そう、という折衷案に落ち着いたのだから。いまだ、その決心はできていない。
人混みに揺られながら、電車の窓の外を見上げる。今日は、いつもよりも星が明るい。帰宅したら、望遠鏡で見上げてみようか、とふと思う。お父さんももし帰っていたら、誘ってみようかしら。そんなことを考えているうちに、地元の駅に到着。小さくノビをする。暖かいものが食べたくなり、りっちゃんのお家にうどんを食べにいこうかな、と思い立ち、向かう。
「こんばんは!大葉天うどん、二杯ください」
「おお、古橋ちゃん!ゆっくりしていってくんな!」
「久しぶりね、古橋文乃!」
りっちゃんのお父さんは今日も元気そう。そして、緒方うどんでずっとアルバイトをしている紗和子ちゃんも。近況をあれこれ話しながら、しばし紗和子ちゃんと歓談をする。いつも元気な彼女は、エネルギーをくれる。大学が一緒のりっちゃんのことを熱心に語ってくれた。素敵なお友達だな、といつも思う。一方、りっちゃんは、就職活動が忙しいそうで、今夜は会えなかった。ただ、わたしが元気であることが伝わればそれでいいかな。
りっちゃんとは、たまに喫茶店で会っておしゃべりをする。相変わらず、とても可愛い。そして、高校生の最後の頃からなのだが、表情がより豊かになった。この前あった時には。恋人がいるのかな?と聞いたこともあるが、うまくごまかされて教えてはもらえなかった。彼女は意志が強い。わたしはそこに憧れている。だから、前に進んでいるような気がしているのだ。別にわたしが後退しているわけではない、と思いたい。
家に帰る道。気づく。いつもよりも、少し広く見えた。あたりが明るいのだ。夜空…?空を見上げる。
ここは、街の中だから、いつもは星は見えにくい。だけど。飛び込んできた星の姿がある。
「フォーマルハウトだ…」
空気が澄んでいるわけではないから、そこまで綺麗ではない。だけど…ここにいるよ、と小さく自己主張していて。それが、とても可愛く思えて。そこで、なぜだろうか。わたしは。なんだかとっても。ふとだ、ほんとうにふと。成幸くんの声が、聴きたくなった。
わたしは多分、少しハイテンションだったのだろうか。わからない。それをなぜしてしまったのか。わからない。気がつくと、スマホを取り出し、彼に電話をかけていた。
いったいいつぶりのことだろうか…。
ルルルルル…1コール、2コール…緊張して、手が震えていた。大学の合格発表以来の緊張だ。だけど、わたしの手は鳴らす電話を止めない。止まらせて、くれない。
もし、電話に出てもらえなかったらどうしよう。ショック受けるかな、わたし。そんなことがあたまをよぎり。
3コール目。
「古橋か!久しぶりだな!元気か?」
彼の、声だった。ほんとうに。久しぶりの。わたしの記憶の中で再生されるものではない、今の、彼の声。正直。恋しかった。少し、泣けちゃうくらいに。
「あ、うん」
が、故の、間抜けなわたしの第一声。
「あの、あのね」
元々用事なんて何一つなかったのだ、今更心臓がバクバクいいながら、頭の中を総動員で言葉を探す。
まさか、声が聞きたかったの、なんて言えるはずもなく。なのに、聞いてほしいことは。今更、いまさらだけど、山ほど、たくさん、あるのだった。
わたしの恋は終わったかもしれない。だけれども、緩くつながっている分にはいいのかも。ほんの少し。いや、大いに。わたしは成幸くんのおかげで、前に進める気がしている。ありのままに、気持ちと向き合うのも、たまにはいいのかもしれなかった。フォーマルハウトに、小さな感謝を。