【はじめに】
大好きなお母さん、古橋静流が亡くなってから、20年たった。わたし、唯我文乃も、つまりそのくらい年を経たということで。
「今年で、わたしも28歳、だよ。あっという間だね」
わたしは、お父さん、古橋零侍と、お墓参りに来ているのだ。
「わたしね……とっても幸せだよ。結婚もしたし。旦那さんは、すっごく優しいし、毎日わたしをたくさん愛してくれるんだよ。えへへ。惚気てるね、わたし」
優しい風が吹き、わたしの頬を撫でていく。お母さんからの、お返事のような気がして。
「それにね、お母さん。今度、わたしもね……」
「文乃、いつまで話をしている。そろそろ冷えてくる。大切な時期だ、無理はさせたくない。唯我君にも悪い」
そこに、お父さんが割って入ってくる。冷たい言い方だが、でも、わたしを心配してくれていることは、知っているから。
「はあい。じゃあ、お母さん。またね」
そういって、少しだけ重い身体を動かし、その場を後にするのだった。
【第一章】
「唯我君。困るよ」
俺、唯我成幸は校長先生に呼び出され、校長室で向き合っていた。校長先生は、普段から俺たち教員とのコミニュケーションを大切にしてくれているし、生徒たちからも直接慕われていて、立派な先生だと思っている。ただ、最近俺は話をしづらいある事情があり、そのことかもな、と予想はしていたのだが。案の定。
「奥さん、妊娠しているらしいな」
「……はい」
「ちゃんと、育児休暇は取得してくれないと。どうして早く相談してくれないんだ」
そういうと、校長先生は困り顔のまま話している。怒っているわけではまったくない。
「つい、伝えるタイミングを逃してしまいまして……すいません」
「君が仕事熱心なのはよくわかってる。私を含めてこの学校の職員はみんな知っているよ」
いいかい、と校長先生は続ける。
「子供が産まれる。産まれたての子供と寄り添う。人生で何度もあるわけじゃない、稀有な経験になる」
「それは、必ず今後の君の教師のキャリアにも役立つものだ」
何より。そこで校長先生は笑顔になる。
「大切な家族が増えるんだ。支える君を、学校みんなで、支えさせてくれ」
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げて、感謝の思いで胸がいっぱいになるのだった。
「唯我先生、絞られました?」
職員室に戻ると、同僚たちに冷やかされる。おそらく、妻の妊娠のことを俺がなかなか上に相談しないことを見るに見かねて、彼らが談判してくれたのだろう。
「皆さん、ご迷惑おかけします」
それを聞き、いやいや、とみんな言うし、後輩の女性教師に至っては怒り始める。
「なんで謝るんですか、奥さんに寄り添うために必要なことなんですから謝るべきじゃないですよ!!」
それに思わずみんな苦笑い。たしかに正論だ。
「しっかり引き継げるよう、残り期間頑張りますね」
任せてくれと、みんながうなずいてくれていて。仲間に恵まれた、そう思うのだった。
【第二章】
「それじゃあ、文乃ちゃんの安産を祈念して、乾杯!」
「乾杯!ありがとうございます」
わたしは、研究室で一番仲良くしている女性の先輩と、お昼ごはんを食べていた。先輩はわたしよりも背が高くて、スタイルも良くて。姉御肌で、面倒見も良くて。そして何より、星への情熱が素晴らしくて。とっても大好きな人なのだ。ベルギー料理のお店で、夜はフルーティなビールが美味しい……のだが、妊娠中のわたしは当然飲めないので、せめて、と炭酸水にしている。先輩は豪快なのだけれど、気配りは繊細なので、ビールを飲むのも似合うのだけれど、今日はわたしにあわせてくれて炭酸水だ。
「せっかく博士課程が終わってこれからだ!と思いつつ、です」
正直なところも吐露する。
「研究職で妊娠や出産をしたからってキャリアに必ずしもマイナスなわけじゃないからさ。昔とは全然違うよ。だから、そこは気にしなくてもいいと思う」
「だって、文乃ちゃん、旦那さん大好きじゃない」
「……それは、そうですけど」
たぶん、わたしは顔が赤い。それを面と向かって言われてしまうと、流石に恥ずかしい。…成幸くんをずっと愛しているのは、本当だけど。
「あのさ」
そこで、先輩は優しい表情になる。
「好きな男の赤ちゃんを授かったんだ。女の子の憧れだよ?文乃ちゃんは、しあわせになってもらわなくちゃ、困るんだよ」
「私たち研究職だってさ。女性として幸せになっていいんだって。そう、思わせてほしいから」
わたしは、少し泣きそうになる。先輩の気遣いに。
「はい……!」
そう答えながら強くうなずく。
先輩は真っ直ぐに受け止めて笑ってくれた。
「ありがとう。さ、美味しいポークソテーが冷めちゃうよ。たくさん食べて、元気をつけてよ!」
「はい、よーし、食べるぞー!」
そういってわたしは、目の前の美味しそうなご飯を堪能するのだった。
【第三章】
「ただいま、文乃」
「おかえりなさい、成幸くん!」
夜の九時過ぎだ。育児休暇をとる、ということで、残った仕事をできる限り整理したくて、ということで、成幸くんは最近遅い。少し疲れた顔も多くなっていて、少し心配だ。わたしにできることといえば……。
「はい、晩ご飯。鳥のむね肉のシチューと、グレープフルーツジュースだよ。鳥のむね肉に含まれるイミダゾール、グレープフルーツに含まれるクエン酸が、疲労回復にいいんだって!」
「おお、ありがとう!……ん、美味しい」
よかった、成幸くんは言葉通り美味しそうに、にこにこしながらパクパクとシチュー食べてくれる。
「……好きだなあ」
好きな人が自分の料理をたくさん食べてくれる。そんな小さな幸せを想い。わたしは思わずそう小声で呟く。
「何か言ったか、文乃?」
「ううん、なんでもないよ!」
好きだよ、という気持ちを推し隠す。まあ、隠せないのだけれど、我慢は必要だと思う。成幸くんは、いつも完璧に返してくれてしまうから。疲れている彼には無理はさせられない。
成幸くんは、お風呂に入っている。寝室に向かう前に、ふと窓の外をみやる。星が今日は綺麗だ。わたしたちの家は、街の中心からは少し離れた場所にあり。なので、季節によっては結構綺麗に見えるのだが、今日は特にすごい。秋の終わり頃のいま。
「そうか、いつもより冷え込んでいるからか」
思わず独り言。
「……少しだけ……」
もともとパジャマでかなり薄手なのだ。だいぶ着込んでから、ベランダに出る。ベランダには、天体望遠鏡がある。お金を貯めて、奮発して買ったものだ。
「……フォーマルハウトだ!」
見えるかな、と思い南の空を覗いてみると、見えた!わたしの好きな星。その時。
「文乃、だめじゃないか!」
本当に珍しい、成幸くんのわたしを咎める声だった。
「あ……ごめんなさい」
わたしはしゅんとする。怒られてしまった。
「文乃が星を見たいのはよくわかるけど。いま、風邪をひいたりしたら大変だよ。一人の身体じゃないんだから」「……この方向だと、フォーマルハウトかな。見えたのか?」
わたしがよほど落ち込んでいたからだろう、成幸くんが優しく声をかけ直してくれた。
「うん……!」
そう言って嬉しそうなわたしを見て、成幸くんは、やれやれ、という表情を浮かべながら、笑顔になってくれていた。
成幸くんが、温かいお茶を用意してくれた。先に飲んで少し待ってて、という成幸くんの言葉に甘えて、先に一口、二口。熱が身体に染み渡る。やはりいつのまにか結構冷え込んでしまっていたようで。やっぱり気をつけなきゃな、と反省する。
「文乃、あったまったらこっちにおいで」
成幸くんの呼ぶ声だ。暖房でもつけておいてくれたのかしら。
そう思い、寝室に向かうと。
「………凄い………星空!!」
びっくりした。寝室の天井に広がる、星、星、星!!!
「驚いた?」
成幸くんが、にこにこしながらわたしの隣にいてくれる。
「家庭用のプラネタリウムなんだけど、最近のは凄いな」
「うん……びっくりしたよ〜!!」
わたしは、成幸くんの心遣いに感動するやら、目の前に広がる星空を見るのに忙しいやら。月並みな言葉しか出てこない。
「なかなかデートで星空を見にいくのも大変になってきたから、せめて、と思ってさ。披露する機会を考えていたんだけど」
「あっ………」
成幸くんがわたしを抱き寄せてくれた。
「これなら、いつでも文乃と星空が眺められるだろ?」
この人は。わたしにどれだけの『幸せ』をくれるのだろう。
「成幸くん」
わたしは、大好きな彼の名前を、甘い声で呼ぶ。成幸くんは、わかってますよ、と、わたしに優しいキスをしてくれた。わたしも、お返しに軽いキスをする。身体が熱くなってきて。さっきまでの寒さはもう、感じられない。わたしはこの人をどうしようもないくらい愛しているのだ、改めて、そう思わずにはいられなかった。
【第四章】
ベットの上で、文乃と寝転びながら星を見上げていた。手を握りあいながら。家庭用のプラネタリウムで、寝室の屋上を星空でいっぱいにしながら。
「……成幸くんのせいで、眠れなさそうだよ」
文乃の嬉しそうな言葉。
「あ、また流れ星!凄いねえ」
そんな文乃の夢中で可愛い様子を見せられている俺も、いつまでも起きていられるよ、とはおもいつつ。
「毎日見られるんだから、早く寝てくれよ?」
そう伝える。文乃は残念そうな表情を浮かべつつ。
「はあい」
と答えた。でも、それだけで終わらず。
「成幸くん、ありがとう。大好きよ」
そんな言葉を……さらりと言われて。手を強く握りしめてくれつつ、文乃の笑顔は本当に綺麗で。
愛おしい彼女。どれだけ毎日、支えてもらっていることか。俺が支えてみせるよ、そう伝えたことはあったけれど、実際、俺が支えてもらっていることの方が多いのだ。文乃に支えられて、俺の今がある。
「この子の名前ね」
文乃が、お腹に手をやりながら話をしている。
「幸せの、『幸』は読み方か、漢字か、また相談だけど、使いたいな」
「わたしは、あなたにたくさんの幸せをもらってる。この子にも、みんなを幸せにしてほしいから」
「文乃、それは違うよ」
「え?」
文乃は不思議そうだ。
「幸せをもらってるのは、俺もなんだから」
「ふふ。両想い、だね」
気持ちを抑えられず、また、俺は文乃の綺麗な形の唇にそっとキスをした。
「成幸くんのせいで、やっぱり、眠れないじゃない」
俺に優しい抗議をしながら、文乃は俺に身体を寄せてくれた。俺もすぐには寝付けそうになく。困ったな、と思いながら、愛する人の熱を感じていたのだった。
【終わりに】
「………じゃあ、決まりだね」
「すごく素敵な名前だと思うぞ」
わたしのお腹の中の赤ちゃん。女の子だということがわかってから、本格的に成幸くんと名前を考え始めて。
『幸乃(ゆきの)』
にしたいね、ということになった。
たくさん幸せになってほしい。
たくさん幸せを分け与えられる人になってほしい。
そして、成幸くんとわたしの名前から一文字ずつ。
掛けたい願いはたくさんあれど、今はただ、早く会いたい。
最終的には、赤ちゃんの顔を見てから決めようとは思っている。ゆきの、という顔をしてるのかどうかは、まだわからないから、だ。
お腹はだいぶ大きくなってきていて。日常生活は少し大変になってきているけれど。
「大丈夫か?無理するなよ、一人の身体じゃないんだからな!」
そう言って張り切ってわたしのサポートに邁進する、大好きで愛しい成幸くんがいるから。なんてことはないのだ。支え、支えられて。わたしたちに新しい家族が加わろうとしている。
お母さんになるのかあ、というのはとても不思議だけれど。先輩が言ってくれていた通り。愛してやまない男の人の子供を授かるということは、とても、とても、とっても、幸せなこと、だ。毎日それは実感している。
「文乃、昼ごはんだよ」
「はーい!」
いいにおい。わたしの好きな成幸くん特製のトマトリゾットのようだ。優しい旦那さんに甘えながら、やはりわたしは幸せ。
そして、早くも、この子、幸乃と、成幸くんと、わたしと。3人で。幸せな星空を眺めるその日を、わたしは心待ちにしているのだった。
(おしまい)