古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

やまない雨は[x]を癒やす音である(後編)

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第七章

 

俺は、自分が今、暗闇の中にいることに気づいた。光はゼロだ。身の回りに何があるのか、全く掴めない。手を伸ばしてみても何も掴めない。届かない。そんな中で、まずは、やまない雨のことを思い出した。意識をなくす直前、感じていた冷たさは、雨に濡れていたそれだったから。雨粒は大きかった。身体に当たっていることがわかるくらいには痛くて。そして、地面に落ちて弾け散る様がわかるような気すらした。いくらなんでもそこまで感覚が鋭くなるわけがない、と思われるかもしれない。でも、俺はあの時、車にぶつかる直前、世界がスローモーションで動いていたので、そんなことを記憶していたようなのだ。

 

誰かに逢いにいく途中だった、ということだけを思い出す。相手は……誰だっただろうか。俺が手にしていた花束が飛び散ってしまった光景も続けて思い出す。花束を渡そうとしているくらいには、特別な人、だったのだろう。

 

雨、雨、雨。

 

やまない雨から始まった連想が、少しずつ、本当に少しずつ、俺の記憶をさらに引き出してくれている。ぽたり、ぽたり、ぽたり。水滴が、傘の端から地面に落ちていく時の音だ。印象に残るくらいの音はしていたのだ。ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 

ざっと、一瞬脳裏に浮かぶ人がいた。顔はわからない。その人の、とある感情がイメージとして表現されて伝わったというのが、より正確な表現かもしれなかった。

 

涙の音だ。事あるごとに、よく泣く人だった。涙もろいというのか。繊細さの裏返しというのか。でも、それは弱さの象徴なんかではない。その人の心の優しさそのものなのだ。ぽた、ぽた、ぽた、その涙の音は、俺の心に毎回響くもので、癒しの音でもあった。

 

『……唯我君。今、会いたい人は、いますか』

 

俺に投げかけられた言葉だったように思う。誰かからだったかは、全く思い出せないし、心当たりもないのだけれど。もしかして、天使だったりして。そんな突拍子のないことが一瞬頭をよぎる。

 

その時、右手が、あたたかくなる。陽だまりの中に手を置いているような、優しいものだ。このあたたかさを俺は知っている。


『ひんやりして気持ちいい、手が冷たいもんね』


俺の手の温度を感じていて、よく、そう言われていたものだ。亡くなったお母さんの手に似ている、とも。

 

映画のフィルムのようなものが俺の脳裏にちかちかと浮かび、動き始める。

 

出会ったのは高校三年生の春だった。当初から柔らかい雰囲気ではあったが、時に口調も少し厳しくて距離を感じないわけではなかった。それでも、教育係という名目で勉強を教え、また、女心の機微を学ぶ師匠としていろいろ教わり、いつのまにかその距離は縮まり。

 

断片的に、一気にいろんな光景、音、匂いみたいな五感に訴えてくる情報が溢れてきた。校舎裏/浴衣姿/共に布団から眺めた星空/握ったその手と熱/台風の中でのデートみたいな1日(カップラーメンの味)/文化祭でのキス未遂/ファミレスのドリンクバー/夕焼けの帰り道/草原の草の匂い/星が降ってきそうな空/肩に寄りかかられる少しの重さ/リップクリーム/猫/雪の中の事故/松葉杖/硬い、でも気持ちの伝わるチョコレート/びしょ濡れのスキーウェア/並んで受け取るヒーターの熱/ふたりで毛布一枚/水族館/星のような魚/空にも地面にも星。

 

いつから、何がきっかけだったか。ああ、この子に俺は恋に落ちているのだ、という自覚を一度してしまうと、もうダメだった。

 

北極星/美味しいお弁当/レモン味のキス/唇の味/レモン色のワンピース/白い肌/写真/アップルパイ/並んで見上げた夕焼け/よく行く居酒屋/純白のウェディングドレス/裸で抱き合うときの熱、声、声、声/鍋/ホットミルク/婚姻届etcetc……。

 

結ばれた後もなお、2人の思い出は押し寄せる。

 

『その彼女』、だ。俺の思い出が浮かび上がらせるのがその人だったのか。いや、その人が俺の思い出を構成しているのか。それとも、俺の人生そのものなのか。たぶん、全部、だ。

 

忘れてはいけない人。その名前は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文乃。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

確信がある。右手のあたたかさのその先にいるその人だ。逢いたい。逢いたい。今すぐに、逢いたい。

 

視界が一気に塗り替えられる。暗闇が剥がされて、見える世界の色が変わって、そして。

 

⭐️

 

閉じた目を、ゆっくりと開く。目の前には、愛しいその人がいた。


「ただいま、文乃」
と掠れた声で俺は告げる。


「……おかえり、成幸くん」
と泣く直前のような声で文乃がこたえてくれた。


たぶん、しゃべりたいことはたくさんお互いあるのだけれど。その情報量があまりに多すぎる。だから、俺と文乃は見つめあった。目と目で、伝え合う。寂しかったことと、あいたかったことと、目の前のあなたを愛していることを。文乃の目から涙が溢れると、頬をなでるように曲線を描く。流れ星みたいだな、と頭の隅で思った。


「!!唯我さん、目を覚ましたんですね!!よかった……!!先生呼んできます!!」


それが大きな声で少し驚くが、そこには看護師がいて。大変間の抜けたことに、いまさら自分が病院にいたことに気づいた。

 

現実にいろいろ追い付かなければ、と思う一方で、手を一層強く握りしめてこちらを優しく見つめてくれる文乃が愛しくてしょうがない。ゆっくりと考えていくか、と俺はあせることをやめ、目の前の愛する妻のことで、頭をいっぱいにするのだった。

 

第八章

 

わたしと成幸くんは、朝方退院し、いまようやく自宅へと戻ったところだ。経過観察や検査などがいろいろあったものの、幸い成幸くんに後遺症などはなくて。……よかったのだ、本当に。

 

わたしがどれだけ心配したのか、心細かったのか、泣きたかったのか(実際少しは泣いてしまったけれど)、それでもがんばれたのは、大切な先生、先輩、友人たちのおかげであること、などなど、成幸くんとおしゃべりしたいことは、それはもう山ほどあるのだけれど。

 

成幸くんが申し訳ない顔をするだろうことは自明の理なわけで。今回、成幸くんに非は一点もないのに、それはあまりに申し訳ないじゃないか。わたしはもうそこらへんのことはできるだけ語るまい、と思いつつ。みんなからメッセージが来たことは、話した。

 

「そうだったのか……みんな心配かけたんだな……」


案の定、成幸くんは申し訳なさそうな表情をしてしまう。ごめんね、とは思いつつ、大切なみんなのことは話したくて、続けた。


「わたしの力にとってもなったんだよ。そういう励ましや心配って、言葉でちゃんと届けられるんだなって。すごく、そう思ったんだ」

「結婚式以来会ってないけど……ありがたいな。まだ気にかけてくれてるっていうのは」

「そりゃあ、そうだよ。成幸くんはわたしたちの教育係だったんだから」


と、わたしは言うものの、少し言葉は選びながら。みんな、程度の差はあれど、成幸くんのこと、好きだったと思っているから。今に至るまでどうかは、わからないけれど、それもまた人生の1ページにしているんじゃないかな、というのはわたしの勝手な想像だ。とはいえだ。成幸くんのことが一番、誰にも負けないくらいに好きだったのは、わたしなんだから、ということだって、あわせて思ってもしまうのだった。我ながら大人になりきれないところではあるが。

 

ところで、と成幸くんが口を開いて、わたしは慌てて思考モードから現実に意識を戻した。


「お昼ご飯、どうしようか?冷蔵庫の中、たぶん空っぽだろ?」

「あ、どうだろう。ちょっと待ってて」とわたしは言って、中身を確認してみる。確かに、お肉や野菜は使いづらいところではあり。
「外の空気も吸いたいし。買い物、行こうか」
との成幸くんの提案で、わたしたちは近所のスーパーに行くことにしたのだった。

 

⭐️

 

やまない雨はないものだ。いろんな意味が読み取れるこの言い回しではあるが、今のわたしの使い方は、文字通りそのままである。随分続いていた、雨がやみ、久しぶりの青い空が広がっている。少しだけ雲がかかっているが、雲たちは今日の空の中では、少数派ゆえ少し窮屈そうにしているような気がして可笑しい。

「んーっ!気持ちいい!」

そういってわたしは大きく伸びを一つ。

「文乃」

と成幸くんに呼ばれて振り返ると、右手を伸ばされる。何度となくしてきたけれど、今はいつも以上に嬉しいこと。いつもよりおずおずと左手を伸ばして、わたしと成幸くんは手を繋いだ。そして、ゆっくりと歩き始める。成幸くんは、いつもわたしの歩くスピードにあわせてくれていて、今日も相変わらず、そうだ。高校生の頃から、何も変わらない。なんて愛しい、日常なのだろうか。

 

徒歩圏内のスーパーに到着する。
「食べたいもの、ある?」
「そうだなあ。意識を失ったあとでなんだけど、結構お腹減ってるんだよ」
「そっかそっか。じゃあ、食べ応えのあるパスタとか、どうかな?カルボナーラとか。久しぶりだしね」
「あー、いいかも!お、桃がもう出てるんだな」
「そうだよ!一つ買って、食後に食べちゃう?」
「文乃の目が桃の形に見えるよ、買うしかないな」
「もう、成幸くんのいじわる!」
何気ない、いつもの、やりとり。隣にいる、わたしの愛しい旦那さんは、いつも通り柔和な笑みを浮かべていて。愛しくてたまらなくなり。その時、視界に家族連れが目に入った。わたしたちくらいの年齢だろうか、まだ若いお父さん、お母さんと、ちっちゃい娘さん。ベビーカーにちょこんと座っていて、お母さんにちょこちょこ覗かれている。そのことだけがきっかけではないものの、わたしは考えていたことがあって。わたしは、あることを伝えなくちゃ、と改めて覚悟を決めたのだった。

 

⭐️

 

一緒に、お昼ご飯づくりをした。わたしがカルボナーラをつくり、成幸くんが簡単なシーザーサラダの担当だ。わたしが全部やるのに、と主張したのだけれど、珍しく成幸くんが頑固に、俺も文乃の隣にいたいから、というので、結局こういう形に落ち着いたのだった。それはまあ、嬉しいに決まっているのだけれど。

 

カルボナーラのソースに目処がつき、パスタの麺、今日はヒラ麺のフィットチーノをお湯にいれこんで、待つ。


「わたしたち2人とも、昔は料理できなかったよね」
「そういえば、そうだな。特に文乃は、結構ひどかったよな……」
「ふふふ、そうかも。水希ちゃんのおかげだよ」
「いろいろと似ていると思ってたんだ、俺たち」
「成幸くん、そういう嬉しくなることは早く言ってよね、高校生の頃にそんなこと言われていたら、きっとたくさんドキドキしちゃってたよ!」


わたしは成幸くんに向かって抗議をする。そこに。そっと、成幸くんの顔が近づいてきて。わたしは、目をつぶる。……ちゅっ、と軽くキスをする。


「俺もドキドキしてるよ、毎日、そうだ」


成幸くんの顔は真っ赤で。同じく、照れてしまったわたしもたぶん顔が真っ赤だろう。ふたりでまた見つめ合って。またまた、嬉しくなってしまうのだった。

 

⭐️

 

美味しくお昼ご飯(デザートの桃も含む)を食べて、お皿を片付けたあと。紅茶をいれて、ダイニングテーブルで成幸くんとわたしは向き合っている。成幸くんに、わたしは話したいことがあった。

 

「成幸くん」

 

「ん、どうした、文乃?」

 

「なんでもない日常が大切なんだって、わたし、今回のことがあって。すごく実感させられたの」

 

「もっと幸せになりたい。キリがないし、わがままなのかもしれない。でも、一日一日を、もっともっと大切にできるように」

 

一息ついて。

 

「わたしたちの、赤ちゃんがほしい」

 

流石に大事な話だったので、成幸くんは目を丸くする。

 

「はっきり言ってこなかったけど。いつかはほしいな、そう漠然と思ってるだけだった。でもね。今、なんだよ。今、選択しなくちゃ、未来は変わらないんだ。もっと、愛しい毎日にしていきたいから」

 

「……文乃、左手を出して」

 

成幸くんの両手が、わたしの左手をそうっと包み込んでくれた。何度となく、思い出と愛しさをくれたいつものように。

 

「文乃、俺の手を、意識を失っていたとき、握ってくれていただろ。文乃の手の温度だった。だから、戻れたんだよ。……離さないようにしないとな。もう、二度と」


そう言って、成幸くんは一層力を込めてわたしの手を握りしめてくれる。彼の冷たい手。大好きな体温だ。直接肌をあわせたい。だから。

 

「……愛しあいたい」


「今から?」


「うん」

 

そして、わたしたちはそうした。

 

愛を求めて求められる。背中に爪痕を残すほど強く抱きしめた。触れるだけのキスなんてない。全部、強くて伝えたい熱い口づけだけだった。わたしの身体と心の熱を絶対に忘れさせないように。彼の心に刻みつけた。わたしの全ては、彼のものであるように、彼の全てもまた、わたしのものなのだった。

 

おわりに

 

わたし、古橋静流の愛する娘、文乃。そして、その文乃が心から愛している彼女の夫、唯我成幸くん。2人は並んで座っている。山あいに広がっている野原だった。見上げれば。

 

……素晴らしい、星空が広がっている!

 

2人にとって、ここが大切な場所であることはよく知っている。彼らが胸に秘めてきた想いを伝えあって、結ばれたところなのだから。

 

文乃が、右隣の成幸くんに、こつん、と頭を肩に預けつつ、身体を寄せた。成幸くんは、左手を文乃の肩に回してさらに抱き寄せる形になる。2人の間に言葉はない。それでも、わかる。言葉でなくとも、愛を伝えあう方法はあるから。

 

最愛の星が互いの瞳に写っているのだろう。夜空の星たちはすべてが文乃と成幸くんを祝福しているのだろう、星のまたたきは彼らの讃美歌だ。わたしもまたその星たちの列に加わるものだった。

 

空からずっとあなたを見守っているからね、文乃。

 

信じている。文乃が成幸くんをたくさん愛して、成幸くんが文乃をたくさん愛してくれることを。彼らが、ずっと、ずっと、幸せなふたりであることを。

 

(おしまい)

 

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