古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

光彩陸離たる星々の行方はただ[x]のみが知るものである⑥

第十五章

 

「……!?どうして……!!」
「どいて。……やっぱり」
 私、水原桜は、動揺する唯我を強引に押しのけて部屋に押し入る。そして、目標を見つけて。

カシャカシャ。

 私は間髪入れず、まずはその女に小さなデジタルカメラを向けて連写する。女……古橋文乃のことだが、名前を思い浮かべるだけでも腹が立つ。唯我の服を着ていた。早速随分仲の良さそうなことだ。どす黒い気持ちのまま、舌打ちをしかけてやめる。私にはやることがあるのだ。反応できていない唯我も被写体にし、すぐさま写真をとる。そして、唯我と女が一緒に写る角度でも。
 唯我も女も、驚きで目を見開いていて、何が起こっているのか理解できていないようだ。優しい私は、善良でこういうことをされるなんてつゆにも思っていないお人好しふたりに、意図を伝えてあげることにする。
「今、私の手元には、古橋文乃と唯我成幸が、同じ部屋で、親しげにしている写真のデータがある」
「……!それが何か?わたしは、友人と一緒にいるだけです!」
 女が、眉を顰めながら、怒りの表情で反論してきた。
「友人、ねえ。まあ、一見親しい男女が部屋にいる『だけ』にしか見えない、と言えばそうかもしれないわ」
 これから追い詰めるために続ける言葉を思い出し、私は笑い出しそうになるのを必死にこらえる。
「……そこに、『悪意』がなければね!」
「『悪意』……?」
 疑問文を浮かべる唯我と女。
「今とった写真をね。SNSで拡散しようと思っているの」
「!」「!」
 ふたりとも、私の話をようやく理解しはじめてくれたようだ。やれやれ。
「今やテレビにも出ている美人天文学者が、男と一緒の部屋にいる。綺麗で親しみやすいあなた。勝手に好意を寄せている人間が、少なからずいてもおかしくはない」
「逆恨みするかも。尾ひれをつけて、あることも、ないことも。それごと拡散するかもしれないわ。もう、事実かどうか、そんなことはどうでもいいでしょうね」
 ふたりの顔が青ざめていく。なんて心躍る展開だろう……!
「一緒にいる男にも矛先が向くかもしれないわね。どこの誰なんだ。顔がわかれば、特定されるかもしれない。ああ、小学校の先生なのか。許せない。仕事の邪魔をしてやる。……大切な子供達に、危害が加わるかもしれないわね。どう、子供思いの唯我先生?」
「桜さん、こんなことやめ……!」
 必死の表情で唯我は懇願する。ああ、いい気味だ!
「名前で呼ばないで、と言ったはずよ?」
といって、唯我をだまらせる。
「私はね」
 部屋の温度を、私の声のトーンで引き下げる。雪女にでもなった気分だが……目的のためにはプロセスでどう思われようともなんでもいい。今回はひたすら結果だけを求めているのだから。
「あなたとその女が憎くてしょうがない」
温度を一度下げ。
「この世の中心みたいな顔して」
また一度下げ。
「私が退場した瞬間に……幸せになるふたりがいる」
そしてさらに下げ、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「許せるわけ、ないじゃない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、この時、驚くほど穏やかな笑顔を浮かべていたと思う。内心怒り狂っているものの。人間、本当に感情が一方向に尖り切ると、笑うしかないのかもしれない。
 そこに、どれだけ、私の本心を込めた言葉だったか。強く強く、思いを込めたのだ。呪詛、といっても過言ではないだろう。話を続ける。まだ全然終わっていないからだ。
「ねえ」
 声のトーンも、意識して優しくする。
「あなたは、学校の先生になる夢があった。そして、叶えた」
 唯我を見ながら、うなずく。そうよね?と念押ししたのだ。
「古橋さんは、星の勉強がしたくて天文学を学ぶ夢があった。そして、叶えた」
 こちらも同じく。苦労せずによね、大嫌い、という呪いを込めて。
「素敵よね。それも、高校生の頃には支え合いながら、一歩を踏み出したわけでしょう?うらやましいわ。厚い信頼があったんでしょうね……。もしかすると、それ以上の感情もあったのかしら」
 それ以上のもの、好意、みたいなもの。ないわけがないだろう。でなければ……彼らの仲睦まじさは説明がどう考えてもつかないのだから。
 だが、もう、いい。もはや、それらを……『壊せる』のだから。
「この写真データで、夢が壊れるかもね……」
 目尻を下げる。かわいそうに、という表情にしたのだ、当然内心そんなことを思っているはずもなく、うわっつらだけだ。
「スキャンダルになって。そのまま、有名大学の天文学者でいられるのかしら?問題になったとして、小学校の先生でいられるのかしら?」
 ……いられない、だろう。ふたりとも、そこまで周囲に迷惑をかけ続けていすわるタイプにはとても思えない。ふふ、と笑いが漏れかけてしょうがない。目の前の唯我と女の、暗い表情!!
「そのふたりで叶えた美しい夢を、守りたいわよね?」
 唯我が何かいいかけるが、私は憎しみをこめた視線を向けて黙らせた。
「守り方を、教えてあげるわ」
 そこで、私は救済案を提示する。我ながらなんて優しいことだ!
「簡単よ。二度とあなたたちがお互い会わない。それを、誓ってくれるかしら。そうすれば、写真データは消してあげる」
 心から欲している、神様に確かに届けたい願いであり、私の祈りなのだ。言い過ぎではない。
「ごめんなさい。残念よね、折角いい雰囲気だったのに。一晩だけ時間をあげる。明日の12:00までに答えを連絡して。それまでに回答がなければ……SNSにばら撒くわ。そうすれば、もう誰にも止められない」
 せめて一晩だけでも、セックスなりなんなりすればいい。なんて私は寛大なのだろうか。
「返事は、古橋さんからしてくれる?私、その人とは二度と話したくないの」
 今更、唯我に話すことなど何もないし、面と向かってやめるんだ、と言ってくるのは目に見えていて、それはかなり鬱陶しい。
「あ、一応言っとくけど。今日、ここにいるのはね。古橋さん、あなたをずっと尾行していたから。この唯我の家の前で出会ってから、この手のプロにお願いしていたのよ。あなたとこの男の親密な場面を掴みたくてね」
 ふたりとも驚いている。私の執念に、怒りの度合いに、呪いたいほど憎んでいる事実に、恐れ慄いているのだ。存分に思い知ってほしい。
「意外にも少し時間はかかったけど。でも、良かったわ、こうして無事に出くわすことができたのだから」
「どうして私たちが、って顔してるわね?あなたたちがいけないのよ?自分たち『だけ』で幸せになろうとするんだから!!」
 声を荒げる。我ながらよくここまで冷静に話せたと思う。
「『最高の回答』を待ってるわ」
 性懲りもせず、やめろ、桜さん!と言う唯我の声にまともに取り合うわけがない。本当に馬鹿な男、と思いながら、私はバタン!とドアを閉めるのだった。

 

⭐️

 

「……なるほど」
『昨晩のことは、そういうわけですから。都森先生は、唯我成幸に接触してもらってもいいですか?身を引くことが、古橋さんのためになる、と伝えてください。それで、よりショックを与えてもらえれば』
 僕、都森圭は、水原氏から報告を受けた。彼、唯我成幸と、古橋先生の動揺は相当なものだろう。ただ、確認したいこともある。
「しかし、少し疑問が。それくらいで本当に諦めるものでしょうか。そして、約束も口約束だけにならない可能性は?」
『彼は古橋さんの『夢』を必ず守ります。そういうバカな男です。それはつまり、会わない、という選択をし、馬鹿正直にそれを守るということです』
 少し天を仰いだ。
「信じられない。甘すぎるね」
と心底思う。
『そうですね。一時は恋人同士でしたから。そこは保証します』
 気づかれないよう、ふん、と鼻で笑う。結局は水原氏の本音は、昔の恋人への復讐、だ。陳腐な話ではあるが、それを引き起こしている唯我氏は、相当世渡りが下手らしい。やはり、そんな男と古橋先生はまったく釣り合わない。
「君は、古橋先生と唯我氏を破綻させればそれでよし。僕が唯我氏をさらに追い込み、それで君の目的は果たせる。一方、僕は、唯我氏が僕に古橋先生を託したことを手土産に、古橋先生にアプローチでき、僕の目的は果たせる」
『ふふ、その通りです。古橋さんがなびくかどうかは、都森先生次第ですが』
「さすがにそこは僕がうまくやりますよ。唯我氏というガンを取り除けるだけで、まずは満足です」
『あ、いま尾行を依頼している業者からメッセージが。唯我成幸は自宅から移動して、近所のカフェにいるようですね。そこで引導を渡してきてください。あとで場所のURLを送ります』
「ええ、わかりました」
 そして、通話は終わる。水原氏は、淡々としつつも、声のトーンから喜びが伝わってきた。どこまでも唯我氏を追い詰めたいようだ。恐ろしい女。まあ、僕の目的のために役立ちはする。しかし、唯我氏。彼が気の毒、だとは思わない。凡人がよくもまあ、僕の邪魔をしてくれるものだ、という路傍の石程度の印象しか持ち得ない。同じレベルではない人間に同情するほど、無駄なこともないだろう。
 さて、それでは。その石ころを、僕の手で取り除きにいくか。そうして僕は、高揚していく心のまま、鼻歌を歌いながら出かける準備をするのだった。

 

第十六章

 

 日曜日の午前11:07。
 そこそこ混んではいるチェーン店のカフェに、その男はいた。事前に渡されていた写真で顔を覚えていたので、見つけるのは容易だった(ちなみに水原氏の切り札である写真データは僕には共有されていない。僕が先に交渉に使ったりすることを警戒しているのだろう。用心深い女だ)。
 彼が2人がけの席に一人で座っていて、物思いに耽っていたところに、声をかける。
「ここ、いいですか?」
「……?……あ」
 訝しがる唯我氏。それもそうだろう、空いている席がある中で、初対面の人間にわざわざ同席を求められたのだから。僕は返事を待たずに向かいの席に座った。
「唯我成幸さん、ですよね?」
「……そうですが」
 君を知ってますよ、ということから話を切り出す。情報で優位にあることを、それとなく伝えたのだ。僕は、にこりと笑う。あまり警戒させすぎないように、だ。
「僕は、都森といいます。怪しいものではありません。帝都大学の研究者です。専門は……」
「遺伝子工学、ですよね」
「おや、知っていましたか」
「民放の番組で拝見しました」
「ああ。クロス・トークかな」
 渡に船、だ。話をしやすい。内心ほくそ笑みながら、僕は続ける。
「あの時、僕が誰と共演していたかは、ご存知です?」
「天文学者の古橋文乃さん、ですよ」
 その名前を呼ぶ時、唯我氏の表情が少し柔らかく変わる。やはり、彼にとって大切な女性だということは本当らしい。まあ、そのことに終止符を打たせにきたわけだが。
「そうです、そうです」
「……失礼ですが、なんのお話でしょうか」
「はは。そう怖い顔をしないで。今日はいい話をしにきたんですよ」
「……いい話?」
「そう。その古橋文乃さんの未来について」
 僕はとびっきりの笑顔を浮かべた。これから目の前の男の心を折り、晴れて古橋先生にアプローチする。そのための大きな一歩になるのだから。

 

⭐️

 

「水原さん。ご存知ですよね」
「……」
 知らないはずがないのだ、半分嫌がらせのための質問。少しだけ顔を歪めた唯我氏の表情はなかなか見ものだ。そして、その返事を聞く必要はない。
「彼女から聞いたんです。君は、古橋先生と仲がいいらしい」
「しかし、君のせいで、古橋先生の素晴らしいキャリアに傷が付く可能性がある、と」
「傷つけようとしているのは、俺ではなくて、水原さんの方ですが。主語をわざと取り違えるのはやめてくれませんか」
「取り違えてなんてませんよ。客観的に長い目で見れば、事実なんですから」
「残念ながら小学校の先生ごときでは、想像もつかないでしょうね。古橋先生の実績は本当に素晴らしい。であればこその、あの若さでの准教授という肩書きです。将来性もピカ1です」
「このまま、実績を重ね続ければ、教授にもなれるでしょう。そうすれば、より研究環境は整い、さらに彼女は研究成果を出しやすくなる。天文学者にとって、大変栄誉ある王立天文学会ゴールドメダルを授与されることだって、夢ではない」
 僕は続ける。あまり表情が変わらない唯我氏に、立場をわからせるために。
「日本の自然科学分野を引っ張れる女性研究者にもなり得る。そうすれば、女性の目標にもなるでしょう。国益にも資する。素晴らしいこと、本当に稀有な存在にさえ、なりうるんです」
 おわかりですかね、と付け加える。唯我氏は僕を少し睨みつけているようだが……僕にとっては滑稽なことだ。
「……このまま、何もなければ、ということですけどね。率直に言いましょう。古橋先生に、二度と近づかないでくれますか?まあ、水原氏からも同じ話を受けているでしょうが」
 僕は、少し間を置く。唯我氏の出方を伺うためだ。しかし、大きく表情は変えない。つまらないことだ。まあ、いい。
「僕がこうお伝えしているのは、『温情』ですよ。安心して、僕に彼女のことを、任せてもらえれば安心だ、ということです」
 ボクシングで言えば、畳み掛けてパンチのラッシュを浴びせているようなものだ。あとは、『敵』がノックアウトされるのを待つのみだ。
「本当に彼女のことが大切なのであれば、できる決断だと思いますけどね。君も男だ。男というものは、女性の知らないところで、女性を守るために決断するものですよ。古橋先生は、僕が悪いようにはしませんから。それが彼女の『幸せ』だ」

 

⭐️

 

「都森先生」
「はい」
 ようやく、本格的に唯我氏が重い口を開いた。多少食い下がるかもしれないが……勝ちは確定している話ではある。適当に受け流せばいいだけだ。
 僕は笑顔を浮かべているが、本心からだ。凡人の余計な足掻き……それを目の前で見えるのは、なかなかいい経験になりそうだった。
「俺は、教師です」
「……?存じ上げていますが」
「教師は、間違いを正してあげることも、仕事の一つなんですよ」
「……はあ」
 僕に似つかわしくない、間の抜けた相槌になってしまう。何が言いたい……?
「自分の受け持つ子供に対してだけじゃないんだと思ってます」
「あの、すいません。僕は回りくどい言い方が一番嫌いなんです。意図がわからないなら、余計にね」
 僕は不機嫌さを隠しきれない。
「都森先生は、間違っています、と申し上げたいんです」
「……あなたが、僕の間違いを正す?」
 眉を顰めた。意味がわからない。帝都大学の一流研究者である僕を、一小学校の教師ごときが、正す、だと?
「ありえない……!」
 かなり不快だ。唯我氏は、にっこり笑って言葉を続けた。
「忠告を素直に聞けるということも、優秀なリーダーの資質だと思いますが。受け入れる受け入れないは別として」
 チッ、と大きく舌打ちをする。立場がわかっていないのか?……だが、どうせ全て握り潰せるのは、僕だ。睨みつけて、唯我氏の話の先を続けさせる。
「夢は他人に与えられるものではありません。ましてや、他人に押しつけられるものでもありません」
 はあ、と僕は深々とため息をつくしかない。あまりにも……。
「陳腐すぎますね。一顧だにするに値しない。これが小学校の教師の平均的なレベルだとすると……日本の将来は危機的だな」
「では、そのロジックがわかっているあなたが、古橋の『幸せ』をなぜ規定できるのでしょうか?」
 馬鹿なことを言っている!
「あのですね。彼女の未来の価値は、凡人のそれとは全く違うんですよ!」
「優秀な人間は、優秀な人間と関わるべきです。それすら理解できないの」

 

「お言葉ですが」

 

僕の言葉に唯我氏は割り込んできた。なんと失礼な。
「古橋はひとりの女性です。そのことを考えたことは?」
「当たり前でしょう。だからこそ、優秀な男性と結ばれるべきなんだ!僕のようにね」
「……そこに、彼女の気持ちはあるんですか?」
 僕は鼻で笑う。
「愛は、ということでしょうかね?馬鹿馬鹿しい。そんなものは、後からついてくる……!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふざけるなっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ばんっ!!と大きな音が立てられた。唯我氏が机を両手で叩いたのと同時。呆気にとられた。

「あなたなんかに、古橋を任せられるわけ、ないでしょう」
「は?」
「古橋の『幸せ』は、彼女が決めます。俺は、彼女の決断する権利を、絶対に守り抜きます。例え、相手が誰だろうと」
「馬鹿が……!水原氏に言われていることを忘れたのかっ!」
「古橋が今頃答えを伝えにいってますよ。脅しには屈しません、データは消去してください、という答えを」
 ちらり、と腕時計を見やりながら、唯我氏は信じられないことを発言する。
「……お前……っ!お前も、優秀な研究者も、職を失うかもしれないんだぞ!夢を叶えた結果なんだろうが!」
「ふたりで決めたことです。言ったはずですよ。『幸せ』は他人が決めるものではない。それぞれが決めるものです。覚悟とともに」
 それに、と唯我氏は淡々と付け加えた。

「愛している女性のために、自分の職くらい投げ出せないとしたら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「男にうまれた甲斐がないでしょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんて屈辱だ、唯我氏はまるで僕を憐れむような視線を向けている。
「これ以上は、お互い話しても無駄です。お引き取りください」
「………………!!」
 不愉快だ……!実に不愉快だ……!
僕は椅子を蹴り倒したいくらいの衝動をなんとか抑え込み、その場を後にする。すごい形相なのだろう、すれ違いざま肩がぶつかりそうで文句を言いかけた店内の客が黙るくらいなのだから。唯我成幸……!必ず、後悔させてやるからな……!!

 

第十七章

 

 私、水原桜は耳を疑った。
「……もう一度、言ってくれるかしら」
 想定外だから、という驚きよりも。涼しい顔で言ってくるその女の意図の読めなさよりも。私の思い通りにならない、元彼の唯我成幸と、名前を思い浮かべるだけでも腹立たしい古橋文乃、そのふたりへの怒りが一番大きい。爆発寸前のマグマがどんどん湧き出るように、憎しみと怒りが入り混じった、強い強いエネルギーで私の心は満ちてくる。
「水原さんの脅しには屈しません。写真データも消去してください。そう申し上げたんです」
 顔色一つ変えずに、その女は一度聞いたその台詞を繰り返した。
「……わかっているの?あなた、夢だった天文学者になれたんでしょう?そのステータスを失おうとしているのよ?」
「心配してくれるんですか。優しいですね」
 ふっと笑いながら、その女は言う。言葉通りのはずがない、相当の皮肉を込めて、だ。顔立ちが整っている分、怒りを増幅させる。私は目の前の女を睨みつける。

 

⭐️

 

 つい5分前、11:07までは、私は完全に優越感に浸っていた。あのふたりは、お互いの夢を尊重し、絶対にもう会いません、だから、データを消去してください、と懇願してくるはずだ。
 正直、その時の態度で決めてやろう、と思っていた。私の満足するくらい、低姿勢で女が言ってくるのであれば、消してやってもいい。だが、そうでないのならば。例え会わない、と回答しようが、SNSにばら撒いてしまえ、と考えていたのだ。
 ちなみに、ばら撒く主体は、私ではない。通称闇バイトと言われる請負先に委ねるつもりだ。下手をすると、脅迫罪の構成要件に引っ掛かる。それはさすがに避けたいからだ。
 そして、古橋文乃から、私の携帯宛に、回答をしたいので会いたい、との連絡があった(私の連絡先は唯我に聞いたのだろう)。
 私は少し考えた結果、結婚式場が有名なホテルのロビーの喫茶スペースを指定した。大好きであろう彼と二度と会わないと誓ったあげく、結婚式場という幸せな場所で、より絶望させたいと思ったからだ。どれだけ引き裂かれるような思いをするのか。楽しみで仕方ない。
 そして、待ち合わせの日時。私は、わざと少し遅れていった。待たせる、という上位の人間ができる行為で、今どちらがマウントを取っているのか、知らしめるところもあった。
 その女は、座っていたのだ。思いの外、苦しい表情ではないのがつまらない。が、まあいい。
「待たせたわね」
 必死に笑いを堪えながら、女の向かい側の席に座った。
「いえ」
と短い返事。

 

「昨日は、彼に抱いてもらった?キスも。セックスも。うまかったでしょう?私が教えたからね」

 

 わたしは、この時最もかけたかった言葉を、心の底から優しく伝えた。少し女の表情が歪む。ああ、愉快だ!
「一晩中やったのかしら?最後だものね?」


「ふふ。ふふふ。あは、あはははは!!」


 もう、ダメだった。私は愉悦に浸り、声を出して笑ってしまう。周囲はギョッとしたようにこちらを見るが、まあ、今くらいは構わない。勝った私と、負けたこの女を、見てやってほしいからだ。
「……ごめんなさいね。可笑しくて……!」
 私は笑いのあまり涙も出てしまい、目尻をハンカチで拭く。女は、いつのまにか無表情に戻っていた。私は小さく舌打ちする。そして。
「決まっているだろうけど。それで、答えを聞かせてもらえる?」
 そう投げかけて。冒頭のやりとりとなったのだった。

 

⭐️

 

「……わかったわ。では、いまここで、望みを叶えてあげる。一言連絡すれば、依頼先がすぐに対応してくれる。あなたたち、もう少し冷静かと思っていたけど、思った以上に浅はかだったのね」
 まあ、それはそれで構わない。唯我成幸と女が破滅すれば私は満足できるのだから。やってくれ。そのメッセージを送りかけた時だった。
「わたしたちは、そんなこと望んでいません。お忘れですか?冷静さを欠いているのはあなたでは?」
「……は?」
「写真データ、消去してください」
「……!何を言っているのよ、私が決める話よ!」
 そこで、女は目を細めた。なんだ、吹雪の中にぽつんとひとり取り残されたようなこの冷たい圧力は……!
「あなたなら、わかっているはずですよね?これは、名誉毀損の観点から脅迫罪に当てはまりうる、と」
 は、と私は鼻で笑う。一蹴すべきものだったからだ。なぜなら……。
「どうだったかしらね……?別に記録に残るかたちで伝えてるわけじゃないわよね?」
 今日、念のためこの女が録音している可能性は考慮して、私からは例の写真をばら撒くとは一言も言っていない。先日も、ふたりは無防備だったはずだ。何もヘマはしていない。
「証拠なら、あります」
「何を」
 言ってるのよ!と言いかけるが、女は携帯を取り出して操作をする。すると。
『今とった写真をね。SNSで拡散しようと思っているの』
「!?どうして……!!」
 聞こえてきたのは、ないはずの昨晩の私の声の録音!つくりものでもない!
「経験が、あるからですよ」
 そう、その女は淡々と話し始めた。
「アメリカに留学していた時。学会で発表していた時の何でもない写真を、当時私に好意を寄せていた教授が卑猥なものに加工して、あなたと同じようにSNSに投稿する!と脅してきたんです。セックスさせろ、と言って」
「その時は、幸い周囲の助けでなんとかなりましたが、自衛の必要性を痛感したんです」
「あなたは、訪問した時、ベルを何度も何度も鳴らしましたよね?あの時、嫌な予感がしたんです。あなたが来ることがわかっていたわけではないけれど、例えば理不尽な宅配業者かもしれなくて、そうすると何か揉めるかもしれない。そうなってくると、必要になるのはその時の状況証拠」
「だから、手元に携帯を置いておきました。そしたら、あなたが飛び込んできて。念のため、録音機能をオンにしておいたんですよ。良かったです」
 そのことを自慢げにするわけでもない。だが、その綺麗な顔の内側に込められた、女の怒りが高まってくるのが、びしびしと私に伝わってくる。

 

「アカデミックなことを追い求める学びの世界は、温室だと思っていましたか?」

 

「わたしが、人の悪意に鈍感で、反応せずに、戦いもしないとでも思っていましたか?」

 

 徐々に……女の声のトーンが上がっていく。私は意外な側面に気圧されて口を挟めない……!

 

「わたしが、こんなことで意志を曲げると思っていましたか?」

 

 

 

 

「わたしのことを、何も知らないくせに……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたしが、成幸くんのことをどれだけ好きかも知らないくせに!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「邪魔しないでっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 先程の私の声以上に、その怒りの声はこの場に響き渡る。その細い身体から出せるものだとはとても思えなかった。そのあまりの剣幕で、周囲はざわざわし始めてきた。

 女は、激昂していたはずなのに、すっとその表情を消した。そのギャップが、恐ろしい。
「今、この場で。写真データを全て消去してください」
 ぞっとするほど冷たい視線で、私の心臓は鷲掴みされたようだった。
「それをしないというのであれば、こちらはいつでも被害届を出せますから。切り札は、こちら側にあります。成幸くんは優しいけれど、わたしは容赦しません。いや、容赦できませんから」
「はっきり言って、わたしたちの邪魔をしなければ、わたしはあなたに興味はありません。まったく、です」
「………………」
 色々、反駁しかけようか、やけになって実行しようか、とも思いかけたが……。私の憎しみの炎は、古橋文乃の、圧倒的なより強い怒りにねじ伏せられてしまい……。また、私自身、自分のステータスを失う覚悟はなく。
 小さくため息をつくと、その写真データを、消すことを受け入れ、そのように手配もし、完了を確認し、伝えた。
 古橋文乃は、憎い女だった。しかし、『女』という代名詞では、とても表現できなくなってしまっていた。あまりに生々しい、熱さと冷たさが同居する、ひとりの人間が、そこにいた。
「……どれが、本性なの」
 この短時間でどっと疲れてしまい、喉はからからになってしまった。乾ききった声で、私は思わずそんなことを漏らした。
 古橋文乃は、笑った。恐ろしいほどに、綺麗な顔で。
「全部、今のわたし。成幸くんは、全てを受け止めてくれます。だから、好きなんです」
「………………」
 敗北感とは違う。降伏、みたいな。唯我成幸に懸けている想いが……はっきりいって、『異常』なのだ。『狂気』に近い。そのことを、古橋文乃のわずかにもぶれない目を見て、私は実感した。
「成幸くんが、直接伝えたいことがあるそうです。今夜19:00、『やまびこ』に行ってあげてください」
「今更、話すことなんて……」
「あなたにはなくても、成幸くんにはある。会う理由なんて、それだけで十分でしょう」
 私は天を仰いだ。従うしかなさそうだったからだ。決して逆らってはいけなかった人間の逆鱗に触れてしまったのだろう。対等だ、と思っていた相手だったが……ステージがそもそも違っていたのだ。同じ猫科のイエネコ同士だと思っていたが、実の所、イエネコと凶暴なライオンの戦いになってしまった。
 いろんなことを、諦めるしかなくて。端的に言えば、このことに関しては、心が折れてしまったのだった。

 

(続く)