古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

光彩陸離たる星々の行方はただ[x]のみが知るものである⑦

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第十八章

 

 私、水原桜は、赤坂の外れにある行きつけのバー、『やまびこ』にきていた。19:00の待ち合わせだったが、少し早めの18:45には到着していた。振って、縁の切れたはずの元彼に呼び出されたからなのだ。バーとして人が入るにはまだ時間が早すぎる。客は今のところ私一人だ。特に注文はしなかったが、すっとキール、私がいつも頼むお酒が出された。
「……マスター、頼んでないわよ」
 初老の店主に声をかける。すると、
「めずらしくそわそわしていますよね。今から来るだろう相手に対しては、普段通り振る舞いたいでしょう。だから、いつものお酒を、ひと口でもどうぞ」
 誰と待ち合わせているか、など当然伝えているわけはないが……。ここの店主にはいろいろ知られすぎている。だからだろう。私は肩をすくめ、仕草でありがとう、と伝えた。
 口にはしないまま、グラスに映った自分の顔と向き合う。一見、クールな美人が映ってはいる。しかし、他でもない自分には、とてもそうは見えない。ひどい顔になってしまったものだ、と思う。人を憎んで、憎んで、憎んで。その果てに、何も残らなかったのだ。疲れ切った表情が張り付いてしまうのも、仕方ないだろう。
「……」
 ふと、右隣の誰もいない席に目をやる。そこに、いつもいたのだ。

 

 好きだった『元』恋人。


 憎しみの対象になった『元』恋人。

 

 唯我成幸。

 

 なぜだろうか。出会いのことを、思い出す。

 

⭐️

 

 私は、そんなに裕福ではない家庭にうまれた。でも、勉強は好きで。家族はかなり無理をして、私の進学のために身を削ってくれた。幸い、期待にはある程度応えられたと思う。有名私立大学を学年3位の成績で卒業した。そして、名の知れた大手商社に就職した。30を少し越え、入社同期と比しても、出世もしているのだから。

 

 そんな出自が背景にある。だから、いろんな理由で一度は断絶していた学びを再びしたい、という人たちをフォローすることは好きだった。周囲からは、クールな見た目から意外だと思われていたけれど。

 

 夜間中学、というものがある。市町村や都道府県が設置する中学校において、夜の時間帯等に授業が行われる公立中学校のことだ。中学校で不登校になり、一度ドロップアウトした若い子はもちろん、再び学び直しをしたい高齢者や、外国人の親子なんかも最近は急増している。対象の増加のスピードに対して、教える側が圧倒的に足りない。そこをボランティアでまかなうところもあり、私はその手伝いもするようになっていて。そして。そこで、唯我成幸と出会ったのだった。

 

 第一印象はよくはない。無駄に笑顔が多い、優柔不断そうな男。そう思った。ボランティアの中での評判は上々。本職の小学校の先生ということで、児童生徒のみならず、お年寄りへの接し方や教え方はうまいし、人柄はいいし、好青年だ、と言われていたけれど。

 

 私は、自然に笑うことは、あまり、というか、ほとんどない。意識して笑うことはできる(作り笑いにはならないよう、うまくやっている)。その方が、円滑にコミニュケーションできることくらいは、知っているからだ。でも、私のその笑い方を見分けられる人間は、ほとんどいない。

 

 ある日のこと。ネパールからきている、18歳にもならないくらいの最近よく見る女の子に、漢字を教えていた。
「これは、桜。さ、く、ら。春に、日本の公園であちこち見ることのできる花です」
 彼女は両手をあわせて、納得したようだ。
「みたこと、あります。ピンクいろの、かわいいおはな」
「はい、そうです」
 そこで、その子は私の名札を見る。そこには、『水原 桜(みずはら さくら)』とあるのだが。
「あれ、せんせいのなまえも」
「……はい、桜、です」
「せんせい、あまり、さくらじゃない。かわいい、じゃなくて、きれい、だから」
 たどたどしい日本語だが、彼女が一生懸命伝えたい内容はよくわかった。彼女に悪気はない。だから、その言葉について悪い気は全くしない。むしろ。
「ふふ、よく言われます」
 私は、その時。久しぶりに……作り笑いではなく、自然に笑顔を浮かべたのだった。

 

 その日、終わりのミーティングが終わり、帰る準備をしている時だった。
「水原さん」
 唯我君に声をかけられた。
「本当はあんな風に笑うんですね」
「?」
 なんのことか、すぐにはピンとこない。
「ほら、サラスワティさんと話していた時」
 ネパールの子のことだ。名前をしっかり覚えているらしい。さすが教師だ。
「ああ、あれか」
 少し、気恥ずかしい。
「本当に笑うなんて、どうして、そうだと?」
 それが、不思議だった。
「いつもの笑顔よりも、目が優しくて。本当はいつもこんな風に笑う人なのかもな、そう思ったんです」
 違ったらごめんなさいと、笑いながら、そんなことをさらりと彼は言ったのだった。

 

 私は、自分の容姿が優れていると、つまりは、美人の部類であるという自覚はある。だから、事実として異性から黙っていても声がかかる。社会人になってからも、言い寄ってきた中で、まあ付き合ってもいいか、という男と二人付き合ったが、いずれも一年持たずに私から振った。そんな私が。初めて恋をした高校生の女の子みたいに。どきっと……してしまったのだ。人並みなのだが。この人は、本当の私を見つけてくれる。そう思えて。それから、そのボランティアで唯我君に会うことが楽しくなっていった。

 

 そのうち、私から食事に誘った。お返しに、唯我君も誘ってくれるようにもなり。いつのまにか、一緒にいる時間が増えて。あれは、そう。『やまびこ』からの帰りだった。
「唯我君」
「はい?……ん!!」
 いつまでも、付き合おうと言ってくれない唯我君にやきもきしていた私は、人気のない路上で、自分から彼に唇を押し付けた。酔ってもいたので、少しだけ大胆にもなれたのだ。
「今、キスしたよね」
「はい」
「責任、感じてる?」
 笑いながら、彼はうなずいてくれた。そして。
「水原さん。俺と付き合ってください」
「いいわよ」
 そして、はれて恋人同士となったのだ。嬉しかった。当たり前だ……好きになった人と、そうなれたのだから。

 

 気持ちが冷めてしまったのは。唯我君が、本気で私のことを好きになってくれているという自信が持てなくなってきたからだ。優しさがなくなったわけじゃない。大切にしてくれなくなったわけじゃない。好きだ、とも、しょっちゅう言ってくれるのに、だ。彼は、どこかでブレーキをかけていた。その自覚も本当になかったのだろう。
 でも、私は女なのだ。私が愛する力と、唯我君が私を愛する力が釣り合わない。前者が強すぎて、後者が追いつかない。そんな立場がいつしか苦しくなってきたのだ。そのことに気づいてしまうと、辛くなる一方だった。
 寂しさを埋めるように、違う男と身体を重ねるようになった。当然、バレないようにしていたとは言え、そのことに彼は気づかず、そのことで余計に腹も立ち。そして、別れを切り出した。

 

 そこに現れたのが、古橋文乃、彼女だった。私が、心底欲しかったもの。唯我君の心全部を……一瞬で奪い取っていった。今回のやりとりで、わかった。わからされてしまった。あのふたりには、厚い信頼関係と、それに基づいた絆と、……私が欲していた、強い力で釣り合う愛があったから。


「………………っ」


 大慌てで、唇を噛んだ。馬鹿なことだ……今更、本当に今更だ。涙が一つ、こぼれ落ちかけたから。悔し涙の類だ、きっと。その時。
「すいません、お待たせしました」
 待ち人の声がした。

 

第十九章

 

 私が右隣の席をすすめ、彼、唯我君が腰掛けた。
「……」
「……」
 視線を交わすことなく、お互い無言の時間がしばらく続く。居心地は、いいはずがない。手段を選ばず、刑法に抵触しかけるような、ぎりぎりの行為で元恋人を破滅させようとした人間と、破滅させられかけた元恋人が再び会って、何を話すことができるというのか。せめて、最低側、事実だけ伝えて、もう帰ろうと思った。
「古橋さんから聞いたと思うけど、例のデータは完全に消したから。安心して」
「……はい」
「……もう、あなたは私に会いたくはないでしょうし。私もそれは同じ。それじゃあ」
 荷物を手に取り、立ち去りかけるが。
「ちょっと待ってくれませんか」
 そう、引き止められた。
「古橋と話したんです。あることを俺がしないと、古橋と俺は一緒にいることはできないって」
「あること?」
 そんなこと、彼女は一言も言っていなかったが。何だろうか。
「正しい別れをしてこい、と」
 唯我君は苦笑いしながら、そんなことを言い、私は?マークだらけになる。どういうことだろう。私と唯我君の仲はすでに終わっているというのに。
「それが何かは、教えてくれませんでした。女心の最終試験だそうです」
 それは別にいいけれど。唯我君も、どうするつもりなのだろうか。
「一つ、約束しませんか?」
「約束?」
「はい。そして、指切りしましょう」
 ふざけているのか、とも思ったが……彼は、真面目な表情を崩さない。私は肯定の意味で、小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お互い、誰かを傷つけずに、幸せになるように」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……!」

 そんな優しい、約束。唯我君は……小さく笑っていた。

「はい、右手の小指を出してください」

 私は……素直に、唯我君の言葉に従う。自分の右手の小指を出す。そこに、彼が自分の右手の小指を絡ませた。
「指切りげんまん」
 数回、結ばれた手と手を上下させる。それらは、切れない。そして。
「嘘つーいたら、針千本のーます」
 何年ぶりだろう、こんな約束の結び方は。そっと、指と指を外した。
「あなたは嘘が上手い人だから。このことは、嘘をつかないでほしいんです」
 私は、いろんな思いが入り混じる。私のことを、わかっていて、思い遣ってくれる人に対して、なんてことをしてしまったのか。今更何を言うのか、だけれども。会うことが最後であろう、今しか、そのことを伝えられない。
「……ごめ」
 と言いかけたが、唯我君が右の手のひらを私に伸ばして、ジェスチャーで、それ以上はダメですよ、と伝えた。私は目をパチクリさせる。
「お互い、謝るのはやめましょう。俺も、謝りません」
「約束もした。これで、イーブンです。対等な立場で、お別れしましょう。これが、俺なりの、正しい別れです」
「……唯我君らしいわ」
 自然と頬が緩んだ。目尻も下がる。多分、私は今、素直に笑うことができていた。でも、出会った頃のように、そのことを彼に指摘してもらえることは、今後永遠にありえない。それは、わかっていた。

 

⭐️

 

「……最後に、教えて。私のこと、憎んでいる?」
「憎めるわけないじゃないですか。好きになったことのある人なんだから」
 子犬が自分の意思で飼い主のもとを静かに去ろうとしているように錯覚した。それほど、寂しそうに、彼は笑った。この言葉は、嘘ではなかった。嘘が下手な人だから、そうであればすぐにわかるから。
「……優しすぎる人」
 絶対に聞かせないように、小さく呟いた。
「呼んでくれてありがとう。あなたと最後こうやって話せて、よかった」
 それは、本心だった。私は、せめて、この場を設けてくれたその人のために、唯我君の背中を押すことに決めた。
「行ってあげて頂戴。あなたが今、一番逢いたい人のところへ」
「はい。さようなら」
 彼は荷物を手に取り、背筋をぴんと伸ばすと、店を出て行った。決してこちらを振り返ることなく。思えば、もう、一度も「桜さん」と名前で呼ばれることもなかった。
 彼の背中を追いかけた視線を、カウンターに戻す。すると、キールが下げられ、代わりに違うカクテルが置かれていた。
「ギムレットです。これは店から」
「たしか……レイモンド・チャンドラーの『ロンググッドバイ』に出てくるお酒……?」
「はい。長いお別れ。遠い人のことを思いながら、飲むものです」
「マスター、私に厳しすぎない?今の今よ?」
「敵討ち、ですよ」
 そう言って、マスターはにやりと笑う。……たぶん、彼の肩を持っているのだろう。
 目の前の、白色のカクテルを眺める。ライムのさわやかな香りが気分を少しいい方向へ変えてくれる気はした。
 長いお別れか。同じ作品の中で、『さよならを言うことは少しだけ死ぬことだ』という有名な台詞も思い出す。
 誰におくるでもなく……さよなら、と声に出さずに、私は呟くのだった。

 

第二十章

 

 俺、唯我成幸は、『やまびこ』をあとにし、地下鉄の駅を目指して歩いていた。八月の最初の日曜日、時刻は19:41。湿気が珍しく少なく感じる夏の夜だ。
 今、もともと振られていた昔の彼女に対して、俺からも別れを告げてきた。そこに至るまでは、色々なこともあったわけではあるけれど、俺なりの「正しい別れ」をし、一つの区切りにすることはできたと思う。
 赤坂の夜は賑やかだ。いつもなら行き交う人の間をすり抜けて歩くのが大変なので、考えながら歩く、ということは少ないのだが。今日は、考えてしまう。すれ違う人たちは、何かを目指していた。その先に待っていてくれる人がいるかもしれない。
 今夜の俺もそうだ。駅までもうすぐ、というところで立ち止まり、人混みを避けるために道の端による。携帯を取り出すと、ある人に電話をかけた。1コールでつながる。きっと、待っていてくれたのだ、心の中で火が灯されたように、あたたかくなる。
「おつかれさま、成幸くん」
 電話の相手、それは、俺の想い人、古橋文乃だ。穏やかな声のトーンで、労ってくれる。俺を緊張もさせ、心を弾ませてもくれる……好きな音なのだ。
「俺がすべきことは、できたと思う」
「そっか。女心の最終試験は、無事合格だね」
「どうだったのか、まだ何も話していないぞ?」
「声でわかるよ。落ち着いて、優しい、いつも通りの声だもの」
「成幸くんが悩んだ結果の『答え』を伝えきったから、いつも通りでいられるんだと、わたしは思ったから」
 古橋はお見通しだ、さらりと、俺の心境を読み取ってくれた。
「……あのさ」
「うん」
「今から、逢いにいってもいいか。伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「わたしがもう知ってること?」
「どうだろうな」
 わざとはぐらかす。ふふふ、と電話の向こう側で、古橋は笑ってくれていた。心を重ねたこと、気持ちが通じ合っていることは、互いにわかっている。でも、まだ。俺はきちんと言葉にして伝えられていないから。「正しい気持ちの伝え方」をしたかったのだ。ふと、あの嵐のような出来事のあと、古橋と話したことを思い出す。

 

⭐️

 

 バタン!と、完全な拒絶の意思表示そのままに、玄関のドアは閉じられた。ひどいことになってしまった。まだ、桜さんの怒りが俺にだけ向いていればよかったのに、古橋まで巻き込んでしまい。俺と、古橋。ふたりの未来が脅かされている。文字通り、頭を抱えたくなっていた。
「ね、成幸くん。こっちにきて」
 そんなシチュエーションなのに。古橋が、そう声をかけてくれる。その声は、とても穏やかで。この状況でも、マイナスな気持ちは感じられない。いつも通りの、心をそっと包んでくれるような優しい、俺の好きな声そのままだった。俺は不思議に思いつつ、古橋の隣に座り直した。すると。
「!」
 天使の羽が触れる時は、こういう感じなのだろうか。そっと、古橋は俺の左手に自分の手を重ねてくれた。あたたかい。強張っていた俺の身体も、心も、ゆっくりとときほぐされていく。
「まず、聞かせて?成幸くんは、水原さんの言っていたこと、どうしたい?」
「……」
 古橋が俺を落ち着かせてくれてたおかげで、混乱しかけていた頭の中はクリアだった。その状況で考える。……直感的な答えはすぐにでた。というか、既に心は決められていた。だが、いろいろな要素でそれが実現可能か、迷いかける。すると。
「最初に思い浮かんだ気持ちを教えて欲しいな。成幸くんと、一緒に考えたいから」
 にっこりと笑いながら、古橋は俺の背中を押してくれる。いつも、そうなのだ。俺を、ずっと、ずっと、応援してくれていた人。俺は小さく息を吐く。そして。

 

「俺は、古橋と一緒にいたい。今更会えなくなるなんて、無理だ」

 

 そう、わがまま極まりない……本音を伝えた。心のまま、だ。
「ふふ、ありがとう」
 古橋は、俺の言葉を受け止めて……嬉しそうだった。さっきから、柔らかい雰囲気をまったく崩さないまま、今も、俺に不安など抱かせぬよう、笑顔で心を照らし続けてくれている。

 

「わたしも同じだよ。成幸くんと、一緒にいたい」

 

 そういって、力強く、大きくうなずいてくれた。しかし、だ。桜さんの言葉が、頭をよぎった。俺と古橋の夢を、壊す、と。彼女は、一度決めたことはどんなことがあろうと実行する人だ。今更自分でやめることはありえない。……どうしたものだろう。その時。古橋が、俺に重ねてくれていた手を少しだけ握るようにし、手と手の熱がより伝わり合う。
「水原さんのことは、大丈夫。わたしに任せて。成幸くんが一緒にいたいって言ってくれたんだもの。戦うよ」
「戦う?」
 飛び込んできたのは、古橋らしからぬ、強い言葉だった。思わず問い直す。
「そう。黙ったまま、ただ壊させるなんて、そんなこと絶対にさせない。わたしが成幸くんを守るから」
 まっすぐ俺を見据える視線は、まるで俺の不安という名の心の影を射抜くかのようだ。力強い決意。
「ありがとう」
 古橋は、かつての優しくて綺麗な印象が強い女の子では、ない。もっと魅力的で、強い女性に成長しているのだ。俺は、心からの信頼を込めて、お礼を伝える。
「それで、俺は何をすればいい?」
「あのね。わたしが、水原さんと戦ったあと。『正しい別れ』をしてきてほしいの」
 俺は少しきょとんとしてしまう。どういう、ことなのだろうか。
「わたしも、女性。だから、水原さんの気持ちも……なんとなく、わかるんだよ。逆の立場なら、わたしだって、ああなっていたかもしれないって」
 だからね、と古橋は付け加える。
「彼女を憎しみから解き放ってあげてほしい」
「……難しいことを言ってるのはわかってる。わたしも、すぐにどうすればいいのか、わからない」
「でも。あなたは人に寄り添える。だから、今の水原さんのことを一番わかってあげられるのは、成幸くんだと思うから」
 古橋は一度視線を落とす。そして、顔をあげる。その瞳は、少し寂しげだったが、すぐに強い光が宿る。古橋が、決断をしたのだ。
「このことが終わらない限り、わたしと成幸くんは、一緒にいない方がいいと思う。誰かを犠牲にして、幸せになるのは、本意じゃないから」
 話の流れから、少し覚悟していた。古橋なら、きっとそういうだろう、と。俺は……。心の片隅で思っていた。だから、同意の意味を込めて、うなずいた。
 古橋の覚悟を、俺は共有できている。俺と古橋は、心を重ねたのだ。だから、気持ちを伝え合いたくて、たまらないはずなのに。
「今夜だけは……水原さんのことを、考えてあげて。救ってあげるために。女心の最終試験だよ!」
 肩に力が入り始めていた俺にすぐに気づいたのだろう、古橋は懐かしいふたりの思い出につながる言葉を交えて、また俺を落ち着かせてくれた。絶望的な状況から、こんなに前向きな気持ちにさせてくれる古橋文乃。
 そんな彼女と、胸を張って一緒にいることのできる未来のために、俺もまた、向き合うのだ。そう、目の前の愛しい女性に誓うのだった。

 

⭐️

 

 古橋の住むマンションのオートロックの玄関まで来た。少し視線を感じたような気がして振り返る。そこには、よく見る宅配便業者の制服を着た人が、3メートルほど離れてこちらに向かっているところだった。帽子を目深にかぶっている。住人に届け物なのだろう。
 俺は意識を切り替える。最寄駅からは、古橋に早く逢いたくて、ずっと笑顔でいて。もうすぐ、だ。古橋の部屋の三桁の番号を押す。
「はい、古橋です」
「おつかれさま、古橋。俺。いま、ついたよ」
「成幸くん!待ってたよ!」
 弾む、古橋の声!だめだ、にやけてしまう。さ、はやくはやく、という嬉しそうな古橋の声で、ロックのかかったドアが、カシャっと開けられる。
 そこから古橋の部屋に、俺は鼻歌混じりで向かうのだった。最初に、どんな言葉をかけようか。そんなことを考えながら。

 

 俺は、とある人物のことを、甘く考えていて、もはやこの時、忘れてしまってもいた。

 

 プライドの高さと、それに比例した憎しみの強さ。

 

 決して侮るべきではなかったのに。

 

暗転

 

 男の後ろ、1メートルほどあとをついていく。オートロックの玄関をぎりぎり入れたのは僥倖だった。神がいるのだとしたら、やはり人類に貢献することのできる僕の味方をしてくれているのだろう。

 

 同じエレベーターに乗る。男は、宅配業者を装った僕に特に注意を払う様子はない。それでいい。今気付かれてしまうわけには、いかない。

 

 7階。男は降り、女が待っている部屋へと向かう。不自然にならないぎりぎりの距離で、足音を殺しつつあとを追う。もともと用意していた、例のものをすぐに『使える』ようにしておく。

 

 ある部屋の前で立ち止まる。横顔でわかる。高揚していて……許せないほどに、幸せな表情をしていることに……!!

 

 「いらっしゃい、成幸くん!」
 女がドアを開け、男を招き入れようとした。

 

 その時だ。僕はそこで一気に走り、追いつく。こちらに気づき、怪訝な顔をする男に体当たりをして、女の部屋の玄関まで押し込んだ。

 

 その時、男の腰のあたりに例のものは突き刺している。おそらく、うまくいったはずだ。

 

 男は無様に倒れ込む。
「成幸くんっっっ!!!」
 女は今にも泣き出しそうな表情で男に駆け寄る。そして、僕を見上げながら睨みつける。そこで、女は僕に気づいたようだ。
「あなたは……!」
 驚きの声をあげ、男を守るように抱きしめる。


 しかし、だ。遅い、遅い、遅すぎる!もう、全てが手遅れだ。


 今から、僕は本当に欲していたものを手に入れようとしている!!

 

はは。

 

ははは……!

 

あはははははははははははは!

 

(続く)