古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

光彩陸離たる星々の行方はただ[x]のみが知るものである④

第九章

 

 僕、帝都大学で遺伝子工学を学んでいる准教授、都森圭(ともり けい)は欲しいものはないと言っても過言ではない。両親ともに医者で、父は外科医、母は麻酔科医。生活に苦労することは全くなかった。容姿端麗頭脳明晰。当初は、親の背中を見て育ったこともあり、帝都大学の医学部に進み、医者になるつもりだった。しかし、遺伝子工学の権威の教授に、うちにこないかと熱心に誘われたのだ。最初は気乗りしていなかったのだが。
 『この学問をしているとね。たまに自惚れかけることもあるんだ。生命に干渉する。これほど神の怒りに近い領域はないよ』
 その言葉が、とても惹かれたのだ。選ばれし人間だけがたどり着ける、命に関わる頂(いただき)。両親も好きにやればいいということで、期待してくれていた医学部の教授陣には嫌味を言われたものの、僕は遺伝子工学を専門にすることを決めた。元々才能豊かな僕が本気で打ち込んだのだ。評価される論文をすぐにいくつか書き上げると、評価は急上昇中。今では、遺伝子工学の若手のホープと言われているし、事実なのでそう声をかけられても特に訂正も謙遜もしていない。
 ……いや。望むもの、一つあった。この僕の優秀な遺伝子を継いでいくこと。そのためには、同じくらい優秀なパートナーが必要だ。
 長年、ふさわしい人間は見当たらなかったのだが。最近、ようやく見つけたのだ。
 この前、民放のとある番組で共演した、天文学者の古橋文乃。美しさ、知性、教養、家柄、職業としての実績。どれをとっても、非の打ち所がない。そこで、この僕がアプローチしてあげたのだが。
「古橋先生、収録おつかれさまでした」
「あ、都森先生。こちらこそ、ありがとうございました!なかなか、慣れなくて、疲れました」
 あはは、と可憐な笑顔を見せてくれる古橋先生はやはり魅力的だ。僕もですよ、と返しながら、
「今度一緒にお食事でもいかがですか?フラットにお話できる機会があると嬉しいな、と思いまして」
と尋ねてみる。これまで、容姿に優れ、経歴も素晴らしい僕から女性を誘って断られたことはない。
「えっと。今、かなり研究の方が忙しんです。なかなかゆっくり誰かとご飯を食べる時間がとれなくって。都森先生もお忙しいでしょうし……」
 だから、ごめんなさい!そう頭を下げると、古橋先生は慌ただしく去っていった。
 ふむ、と僕。どうやら、今、断られたようだ。ありえない。……が、怒りよりも、だ。余計に興味が湧いてきた。そっけない彼女を振り向かせるという、研究テーマ。挑戦し甲斐がありそうだ。

 

 だが、いまのところ、成果はない。週に一度、書き振りをいろいろと変えながらメール(名刺のアドレスなので研究室のものだろう)をしている。しかし、何度送っても決まり文句のような断りの返事しかこない。
 僕が、古橋先生を気に入っていてアプローチしているという話は、浮いた話に鈍感な学内でも噂になっているらしい。別に隠すことでもないのだ、放っておいたのだが。すると、勝手にいろいろ教えてくれる人間もいるのだ。曰く、彼女に声をかけたがる人間はこの界隈だけでも多く、だが、皆一律につれない反応をされているらしい。
 しかし、この僕が!そんな輩と同列であるとは、耐え難い。何かいい打開策はないものか。そう、爪を噛みながら思案していた時だった。
「都森先生、お客様ですよ。紅石商事の、水原さん」
 助手にそう声をかけられた。知らない名前だ、アポもなく、なんの用だろう。追い返そうとも思ったが、美人ですよ、と囁かれ、まあ会ってやるか、という程度には興味を持つ。応接スペースに案内を頼み、ジャケットを羽織った。

「突然申し訳ございません、都森先生」
 そこには、たしかになかなかの美人がいた。髪は短い。目鼻立ちは整っている。理知的な目をしていた。スタイルも良い。名刺を交換し、ちらりと目を通す。
『紅石商事グローバルコミットグループ統括第二ユニット長 水原桜(Mizuhara Sakura)』とあった。僕とそこまで年齢が変わらないようなのにユニット長、か。出来が悪いわけではないらしい。
「都森先生の遺伝子工学の研究、我が社としても大変興味をもっております」
 水原氏は、にこっと僕に笑いかける。感じのいい笑顔。だが……どこか違和感を感じた。何か隠しているものがある。
「それは、どうも」
「実は、今度政府のプロジェクトの一環として、北米市場の開拓につながる農作物を探しています。その際に、従来とはまったく異なるものが必要と考えておりまして……?」
 回りくどい。そこで、僕は両手を前に出して話をストップさせた。
「水原さん。僕も馬鹿じゃない。あなたが『何か』を隠して話を進めようとしていることくらいはわかります。その『何か』をさっさと開示して話してくれませんか」
 単刀直入にそれを伝えると、彼女は目を見開いた。そして、にやりと笑う。
「聡明な、いや、聡明すぎる方ですね。……古橋文乃さんについて、です」
「へえ」
 それは随分気になる話題だ。この人とは全く結びつくようには思えないが……。

「都森先生、古橋文乃さんに興味がある、とか。学内の方から聞きました」

「まあ、ないとはいえない、ですね」
「実は、彼女の自由な恋愛の妨げになっている男性がいます。唯我成幸、と言うのですが」
 その名前は初耳だ。

「彼女は、その男にある意味囚われているんですよ」

「囚われている?」

「はい。それを解決してあげることは、彼女のためにもなります。私は、そのために考えていることがあるんです」

 そこから、彼女が話す内容は……僕が時間を割くに値するものだった。唯我成幸。彼の排除が、必要だというわけか。

 

第十章

 

「久しぶりに実家に帰ってくるっていうから、もしかして!と思ったけど……。いつになったら、結婚します、って報告をしてくれるわけ、成幸?」
 俺、唯我成幸は、7月最後の週末に、久しぶりに実家に帰っていた。特に用事があったわけではなくて、なのだが、冒頭の言葉をかけられると居心地は悪い。苦笑いをしながら、出してくれたお茶に口をつける、が。
「……苦っ」
「良薬口に苦し、よ。親もいつまでも元気じゃないんだから。月並みだけど、孫を早く抱かせて欲しいわ」
「……相手がいないんだから、しょうがないだろ」
 そう、母さんの圧に負けそうになりながらなんとか言い返す。
「水原さん、だった?いつの間にか付き合って、いつの間にか別れちゃったのね」
「……うん。振られたんだよ」
 苦いことがわかっていたが、俺はもう一度お茶をすする。苦味がほしい気持ちになる思い出だったからだ。
「甲斐性がないのかしら。あんたが高校三年生の頃は、あんなに素敵な女の子たちが五人も身の回りにいたのにね!」
「……別にそういう関係だったわけじゃ……」
 弱々しく俺は反駁するが、母さんは聞き入れそうになく、案の定話を続けた。
「ふみちゃん。りっちゃん。うるちゃん。あーちゃん。まふゆちゃん」
「……」
「みんな、今頃……どうしているのかしら」
 ねえ、と母さんに視線で問われ、俺は肩をすくめる。母さんは、小さく息を吐くと、少し真剣さを含めた表情になる。
「あれから、もう10年も前になるのね。もう、時効だろうから白状してもいいわよ。どうして、告白しなかったの?」
「……告白って、誰にだよ」
 動揺する。好きなやつは、たしかに、いたからだ。

 

「ふみちゃんでしょ」

 

「……ぐ」

 

 二の句が告げないとはこのことだ。ズバッと踏み込まれて……見事言い当てられてしまった。誰一人、このことを話した人はいないのに。これが、母親というものだろうか。もしも、ふみちゃんがあんたを好きだったら、という仮定だけど、と断った上で、母さんは続けた。
「あんたもふみちゃんも、周りの人間関係に波風立ててまで気持ちを伝えるなんてことが、『できない』。その頃は、という意味だけど。だから……お互い、本当の気持ちを、届けられなかったのかもね」
「………………」
「文化祭のジンクスとか、なにかのおまじないとか……そんなちょっとした自信になる出来事があれば、背中を押してくれることもあったんでしょうけど」

 今更いってもせんないことだけどね、と母さん。
「……人の気持ちって変わるものなのかな」
 そう、思わず俺は呟いた。うーん、と少し母さんは悩んでから。
「あたしは幸い、お父さんと出会って、恋が叶って、結婚することができた。だから、離れて何年も想い続けたことはないのだけれど……」
「恋は実るものばかりではないから。だけど、本気の恋が人を磨いてくれるもの。例え叶わなくても、生き続けるもの、なんじゃない?」
「叶う、叶わないじゃなくて。もしも、長い間、ただ、誰か一人を想い続けている恋があるとしたら。想われている人は」
 そこで、母さんは少し言い淀んだ。
「幸せ、すぎるわよね……」
 少し、信じられないけれど。そんなニュアンスを含んだ言葉だった。
 俺は……現在進行形で、古橋への気持ちが、平静ではない状態になってしまっている。その自覚はある。高校生の頃に封印していた、その想いが根っこにないわけがない。
 ……だけど、俺は違う人と恋をした。振られたとはいえ、その事実は変わらない。
 そんな俺が。再び、古橋に、高校生の時と同じ気持ちを抱いてしまっても、いいものなのだろうか。もちろん、古橋が俺のことをどう思っているのか、それはわからないけれど。
 流石にそんなことまで母さんに問うことはできず。母さんにばれないように、小さく小さく、ため息をつく俺なのだった。

 

⭐️

 

 静かだ。賑やかな、いや、賑やかすぎた我が家だが、様変わりしている。今、うちには母さんしかいない。水希は社会人で一人暮らしだし、葉月と和樹もいまや大学生で、ルームシェアをしながら家は出ているからだ。

 ま、慣れればなんてことはないわよ、という母さんはやはり少し寂しそうで。帰ってきてよかったと思う。久しぶりに食べる母さんの飯はうまかった。その後、最近の俺の仕事の話とか、母さんの趣味サークルの話をして。古橋の話は、どうしようか迷ったけれど……。結局、してはいない。

 さて。夜も遅くなり、母さんにもおやすみと伝えた。そして布団に入ったはいいものの、眠れない。暑くて、湿気もありるのは夏だからしょうがなくて。
 それ以上に……考え事があったから。高校生の時、どうして俺は古橋に告白しなかったのか。いや、告白『できなかった』のか。
 母さんの言うことは一理あったのだ。あの頃、女性5人に、男1人だった。俺が誰かに告白してしまえば、結ばれる結ばれないとは別で、何かしらバランスがとれなくなるだろうな、ということは感じていた。下心は当然ないスタートだったにせよ、だ。そんな中で、いくら古橋に惹かれていたとはいえ、そこから告白するほどの勇気が、なかったのだ。
「……わからないな」
 どうすれば、よかったのだろうか。と、その時。
 ルル、ルルル……。
 着信だ。慌てて雑念を振り払い、携帯を手にする。誰からか、見て。
「古橋……!?」
 驚いた。連絡先を交換してから、電話で話すことなど、ましてや、古橋から連絡をもらったことすらなかったのに、だ。嬉しくないわけがなく、胸が高鳴りつつ、なんだなんだと、緊張しながら電話にでる。
「はい、唯我です」
「あ、成幸くん!夜遅くに、ごめんね。今、電話大丈夫だった?」
「ああ、平気」
「ずっとバタバタで、なかなか連絡できなかったんだけど、この週末にね、久しぶりにお休みがとれたんだ。本当は、成幸くんのおうちに行きたかったんだけど、お父さんが風邪で倒れちゃっていて、今夜はその看病で久しぶりに実家なんだ。お詫びしたくて、電話したの」
 古橋はかなり申し訳なさそうだ。
「いいよ、俺は、いつでもいいからさ。それより、親父さん、大丈夫なのか?」
「うん、薬を飲んで、熱はもう下がったから、明日にはほとんど治るんじゃないかな」
「そうか。なら良かった。実は、俺もいま実家なんだ」
「え、そうなんだ!おばさま、元気?」
「ああ、相変わらずだよ」
「ふふ、懐かしいな……。あ、そうだ」
 古橋が何かを思いついたようで、少し声のトーンが上がる。なんだろうか。
「もし成幸くんがよければ、一ノ瀬学園で会えないかな?明日のお昼過ぎの15:00。どうかな?」
「俺は大丈夫だよ」
 喜んで、と付け加えたくなりさえする。
「場所は、そうだね。あの、『いつもの場所』、とだけ言っておこうかな」
「なんだよ、それ」
 俺は思わず吹き出した。えへへ、と古橋が電話越しで小さく笑っている。古橋からのお誘い。俺は断る理由など何一つなかった。会えることが、ただ、嬉しい。
「じゃあ、わたしのこと、探してね?これ、女心の練習問題だから」
 頼むよ、弟くん。そう付け加えられる。懐かしい話題だ。
「あ、お父さんが呼んでる。ごめん、それじゃあ、また明日ね!」
「うん、また明日」
「おやすみなさい、成幸くん」
「ああ。おやすみ、古橋」
 そういう流れで、電話が切れた。胸の中に溢れる、あたたかい気持ち。……その名前を、本当は、俺は知っている。でも、それを認めてしまうと……何か、一線を超えてしまいそうで。一つ深呼吸をして、なんとか頭を冷静にさせた。ぐらぐらと揺れる、俺の心。明日古橋と会える嬉しさが、その揺れを一層大きくしていることはわかりつつ。今夜は寝られるだろうか。そんなことさえ、考えてしまうのだった。

 

第十一章

 

 夏真っ盛りである、7月の終わり。やはり……暑い。俺は額の汗をぬぐう。あくる日の14:30。待ち合わせには少し早いけれど、俺は一ノ瀬学園に到着していた。もしも、古橋を探すのに手間取ってしまったら、一緒にいられる時間が少なくなってしまう。それは嫌だった。
 それにしても、久しぶりだ。一ノ瀬学園。俺が高校三年間を過ごし、特にその最後の一年は、特別に濃厚で、思い出深くもあり。思えば、卒業以来片手で数えられるくらいしか再訪はしていない。
「……思い出さないわけ、ないよな」
 多くのトラブル、イベント、勉強、勉強、また勉強。……俺の心の、揺らぎ。その要因となった人に会うべく、俺は『いつもの場所』を目指すのだった。

 

「……見つけた」
「なんだ、早かったね。女心の練習問題、大正解だよ!」
 ぱちぱち、と拍手をしてくれる女性。水色のシャツ素材のワンピースがまぶしい。日焼けを気にしているからだろう、白い長袖のカーディガンも羽織っている。誰であろう、古橋文乃が、そこにいた。
「ひねってくるかな、と思っていたけど、ストレートだったな」
 そういいつつ、俺はすぐに会えてほっとしている。
「ちゃんと、覚えててくれたんだ」
 そういう古橋は嬉しそうだ。
「うん。ここでよく、相談に乗ってもらっていたから」
 校舎裏の出入り口。そんなに人通りもなくて。二人で並んで座るには、ぴったりの広さだ。俺が古橋にちょっとした相談事をするには、ちょうどよかったのだ。
「……ん」
 またか、ハンカチで流れる汗を拭う。その間、少し古橋は俺を見つめてくれていて。緊張してしまった。
「夏、だね」
「うん。夏だな」
 ここは夏でも日差しが強かった。今もそうなので、余計にそのことの記憶が蘇ってきた。くすくす、と古橋が笑っている。
「どうした?」
「今日みたいに、暑い日だった。わたし、よく覚えてるの」
 成幸くんはどうかな、と言いつつ、古橋が続ける。
「成幸くんと付き合ってる、そんな噂がクラスであったんだ」
「ああ、そんなことあったな!俺が知らない間に解決してたやつだ」
「そう、それ!騒動が終わって、そんなことあったよって、この場所でお喋りしていてね。わたし、成幸くんにこういったの。『いっそのこと、ほんとにつきあっちゃう?』って」
 古橋は、にこにこしながら懐かしそうに話してくれた。言われた当人の俺は、と言えば……。
「……覚えてるよ」
「あ、ほんと?わー、恥ずかしいねえ」
 そう言って、古橋は両手で少し赤らめている頬をぱたぱたと扇いでいる。照れ隠し、なのだろう。忘れるはずがない。リアクションに困ってしまった俺に、古橋が慌てて冗談だよ、と声をかけたのだ。
「……うなずいておけばよかった」
 戻りはしない、あの時間。意味はないのだ、と思いつつも……そんなことを、小さく呟いてしまった。
「……成幸くん?」
「ああ、ごめん。なんでもないよ」
 おそらく聞かれてはいないだろうが。俺は平静を装う。……古橋との、思い出が、次から次へと、鮮明に蘇ってくる。夏の日差し。校舎裏の草の匂い。風の熱さ。隣の、古橋文乃。
 武元や理珠のことで悩んでいた俺が、何度となくここで相談した。インスタの事件の時や、先程のつきあっちゃう?と言われた時や、そう、バレンタインでチョコレートをもらったのも、ここだった。
 ……そういえば、バレンタインの直前、プリンを持って逃げ出した古橋を追いかけた時もここで捕まえたのだ。小雨が降っていた。古橋と一緒に思い出を振り返っていて、その時、何か古橋が呟いたのだ。聞き取れなかったのだが。今思えば……とても、大切な言葉だったのかも知れず。
 続けて、思い出した。古橋に問われたのだ。旅館で過ごした夜。俺は、古橋の手を握ったまま、寝てしまっていて。どうして、自分の手を握ってくれていたのか、聞かれたのだった。所詮高校生ではあったが、俺ができる精一杯が、おそらく母を思い涙していた女の子の差し出された手を握ること、だったから。そう、答えた。
 古橋は……先日、別れた彼女からの言葉で傷ついた俺の手を握ってくれながら、励ましてくれた。それが、どれほど俺を元気付けてくれたことか。
 してもらった方は……気になってしまうものだ。今なら、あの時の古橋の気持ちが、わかる気がした。
「真面目な顔してる。何か、考え事?まさか、出来の悪かったわたしの数学のことかな?」
 そう古橋が茶化してくる。俺は違う違う、と笑いながら答えて。少し、迷いつつも。
「この前、さ。喫茶店で、俺を励ましてくれただろ。どうして、手を握ってくれたんだ?」
 ……そう、ストレートに聞いてみた。
古橋は、目をパチクリさせて。ふふふ、と笑う。そのまま、あのね、と話し始めた。
「成幸くんは、わたしが助けて欲しい時や、応援して欲しい時に、いつも手を握ってくれていたからね。旅館でお母さんを思い出して悲しかった時も。夢を諦めかけていた時も。そのお返しだよ」
 古橋は、ね、と目で感謝をあわせて伝えてもくれた。
「わたしも、大人になったから。少しは余裕を持てるようになったつもり。今度は、わたしが成幸くんを助けてあげる番だよ」

「いつか、言ったでしょ?」

「君が本当にやりたいことを見つけた時は」

「お姉ちゃんが全力で応援するからね」

「『成幸くん』って」

「少し、お姉ちゃんっていうには、年を重ねちゃってるけどね。ふふふ」

 

 だからね、と古橋は言い。

 

「成幸くんが、誰かを幸せにしたい、そう願っていたでしょ?そのことを、応援してる。……ううん、それじゃ足りないか。ずっとずっと、応援し続けてるからね!」

 

 拳を握って、まっすぐ真剣な表情で、古橋は伝えてくれた。

 

 俺は、「今」の古橋文乃のことを、ようやく見つけることができたことに気がついた。

 

 懐かしく、忘れ難い思い出が多い、「昔」の古橋文乃ではない。あの頃よりも、もっと優しくて、強くて、懐が深い、ずっとずっと魅力的になった、古橋文乃。

 

 胸の中にあった気持ち。それは、たしかにあったのだ。でも、その気持ちの名前を、俺は、ずっと、誤魔化し続けてきた。高校生の頃から、およそ10年。再会しなければ、そのままだったかもしれない。再会したとしても、きっかけがなければ、そのままだったかもしれない。

 

 でも、今、この瞬間から。もう、俺は誤魔化せない。一度、自覚してしまえば……もう、ダメだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


好き、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

溢れてきて、とまらない。

好きだ、好きだ、好きだ、好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


俺は、古橋文乃のことが……好きなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 もう、俺とは釣り合わないから、とどこか諦めていた。違う人と恋をした俺が都合よく持ってはいけない気持ちなのだ、と思ってもいた。だから、彼女に対して、抱いてはいけない気持ちだと思い、見てみぬふりをしてきた。

 

でも。

 

きっと。


いつの頃からか。


俺はずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなにもこの人に、恋をしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


俺の隣で、にこにこ笑ってくれているその女性が、眩しい。

 

(続く)

 

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