古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

彼の人は流れ落ちる[x]を巡り右顧左眄するものである

はじめに

 

 わたし、唯我文乃は迷っている。愛する人との赤ちゃんを授かり、五ヶ月になる。いろいろな身体の変化が大変で。つわりもひどくて、あのわたしが食欲がなくなってしまうほど。妊娠しているはずなのに、わたしの体重がなかなか増えなかったりもするのだった。幸いというか、お腹の赤ちゃんは、順調に育ってくれていた。そして、ようやく安定期に入った。普通通り、とまではいかないまでも、食欲も最近取り戻しつつあって、夫、成幸くんの心強い助けもあり、最近はかなり前向きに今の生活を楽しめるようにさえ、なっている。しかし。そんなわたしには、とある悩みがあるのだった。

 

第一章

 

「ええっ、文乃ちゃん、髪を切るの!?」
「あの、まだ決めてわけじゃないんです。迷ってるだけで……」
「いや、それでもビッグニュースでしょ。ねえ、麻子さん」
「ふむ。話題になる、という意味ではそうだね」
わたしは、通っている天花大学近くの行きつけの喫茶店、銀星珈琲に来ていた。マスターとはとても仲良くしてもらっている。そして、同じく仲良しの研究室の天津先輩が、わたしが安定期に入ったと聞くと、マスターにも了解はもらった上で、無理しない範囲でお店に遊びに来なよ、と誘ってくれたのだ。わたしがぜひ!と答えると、わざわざ定休日にお店をひそかに開けてくれて、仲の良い二人と、ゆっくり過ごせることなったのだ。仲のいい人たちとおしゃべりできるのはやっぱりとっても楽しくて。その流れの中で、ぽろりと今のわたしの悩みを漏らしたのだった。
「子育てに向けて髪をバッサリ切る、というのはよく聞くけどさ」
「はい。やっぱり、すごく忙しくなっちゃうので鬱陶しくなっちゃうみたいなんです。ショートだとお手入れも楽だし」
「うーん」
まあ、もちろん文乃ちゃんが決めるべき話だけど、と天津先輩は前置きして、
「あたしは反対だな。長い髪って、女の子の憧れなんだ。文乃ちゃんは、みんなの憧れのままでいて欲しいから」
そこでマスターが吹き出した。
「何よ、麻子さん」
と、憮然とする天津先輩。
「いやね、えらいものを背負わせているものだ、と思ってね。可愛い後輩に変なプレッシャーをかけるもんじゃないよ」
 ねえ、とわたしに同意を求められ、わたしは苦笑いだ。天津先輩のその言葉は、正直嬉しいものでもあり。でも、確かに荷が重くもあり。とはいえ、わたしはもう成幸くんのものなんだけどな、えへへ、とも思う。
「そういう麻子さんはどう思うわけ?」
「あたしかい。切ってもいいんじゃないかね」
「ええ!どうして?」
「女は変わっていくものだ。内面だけじゃなくて、外見だってそう。その変化を楽しめるのも、いい女の条件だよ」
「なによ、文乃ちゃんにいい女を託してプレッシャーかけているのは麻子さんだって一緒じゃん!」
「うん?あたしはいいんだよ。この先短い年寄だあらね。若者には期待と圧力をかけるもんだ」
 そういって、からからと笑うマスターと、まったくもう、という顔で受け止める天津先輩。その後もいろいろとやりとりはあったものの。
「ま、文乃ちゃん。いい女の大先輩とあたしの言うことはごく参考だと思ってさ。他にもいろんな人の話を聞いてみてからでも、いいんじゃない?」
 そう言って、天津先輩とマスターは、わたしを優しく送り出してくれたのだった。

 

第二章

 

「正直にいうと、はっしー、髪傷んでるねえ」
「ああ……!やっぱり……」
 はあ、とわたしはため息をつく。今日は、行きつけの美容院にきているのだ。いよいよ切ることに決めた!!……わけではなくて。ひとまずは、久々にトリートメントだけでもしたいなあ、ということなのだが。髪が傷んでる事実をプロから伝えられると、やはりそこそこ落ち込んでしまう。
「やっぱり、いまは毎日丁寧にケアできるわけじゃないから、傷みやすいですよね……」
「そりゃ、原則からすればねえ。でも、最低限のケアでフォローできることも、あるよ。例えば……」
「うんうん」
 わたしが高校生の頃から通っていて、さらにずっと担当してくれている流川渚さん。信頼しているのは、その腕前だけじゃなくて、的確なアドバイスも納得いくものが多いし、いろんなお話もしやくて。好きな親戚のお姉さん、というようなポジションだと密かに思っていたりもするのだが。
「……髪、切っちゃうっていうのも、あり、ですかね……?」

 わたしの一番の懸案を、思い切って聞いてみた。どんな答えになるのか、緊張しながら。
「……はっしー。正直に言っても、いい?」
 柔らかな雰囲気だった流川さんが、急に真面目な顔になる。
「はい」
わたしが大きくうなずくと。
「反対。大反対!」
 そう、きっぱり、はっきり、強い意志を込めて、そう言ってくれた。
「私、この業界の経験も結構積めてきていると思うんだ。私が見てきた中では、はっしーの髪の綺麗さは……、正直、一番二番を争うくらいだと、本気で思ってるの」
 恐れ多く、どんな言葉で返事をすればいいかわからず、ひとまずありがとうございます、という気持ちだけでも伝えたくて、ペコリと頭を下げる。
「努力で綺麗な髪にすることはもちろんできるし、そのためのお手伝いを私たちは喜んでする。でもね……生まれ持って綺麗な髪って、やっぱりあって。それを、頑張って維持してるひとも、応援したい」
「はっしーは、ずっと、一生懸命その髪の毛、長いままケアしてきたわけじゃない?それだけでも、すごいことなんだよ?」
 珍しく、流川さんが熱くなっていて。少しびっくりしながら、そのお話を聞いている。すると、わたしたちのところに近づいてくる人がいて。わたしは目線で流川さんに合図をおくるが、気づいてもらえない……!
「私、はっしーの髪のこと、好きだし、高校生のころからずっと知ってるから……」
「……るかっち……?」
「……あ、店長!」
「少し聞いていてしまって、盗み聞きみたいになったのは悪かったけれど……。少し、私情が強すぎて、アドバイスになっていなかったんじゃないの?」
 ねえ、古橋さん、と店長はわたしに同意を求め、ついついわたしは苦笑いだ。
「今日のところは、結論は保留にします」
「また、るかっちが冷静になった頃に相談してね。ね、るかっち?」
 笑いながらだが、店長に釘をさされ、わたしの信頼している美容師さんは縮こまってしまっていた。
「はっしー、ごめんねえ」
「いえいえ、気にしないでください!わたし、もう少しいろんな人の話、聞いてみます」

 そのあとは他愛ない最近流行りのスイーツの話題なんかをしつつ。わたしはいよいよ、『あの人』に聞いてみよう、と覚悟を決めたのだった。

 

第三章

 

 大学関係者に聞いて。髪のプロにも聞いて。わたしが聞きたいのは、あと、一人だ。そう、大好きな旦那さんである……成幸くん。
「……と、いうことで。髪の毛を、ばっさり切るかどうかで、迷ってるんだよね」
 リビングのソファに並んで腰掛けながら、わたしが率直ににそのことを投げかけると、成幸くんは腕組みをして、宙を見ながら、うーん、と唸っている。
「いろんな髪型をしてくれているのも好きだし、下ろしてストレートにしてくれているのも、好きだし……」
 いつも成幸くんの愛情表現はまっすぐだけと、今日も嬉しい褒め言葉だ。嬉しい、そのことが隠せずに、頬がゆるむ。

 成幸くんもまっすぐなら、わたしも素直に喜ぶ。このこと自体、周りに伝えるとびっくりされるのだが。さて。
「文乃の髪、長くて綺麗だからな……」
 嬉しいのだけれど、少し違和感も湧いてきて、少しだけわたしは意地悪したくなってしまう。
「ふーん。成幸くんは、わたしの『髪の毛』が好きで、綺麗だと思ってるんだ?わたしじゃなくて、髪の毛が好きなのかな?」
 少し不機嫌さを装って、そんなことを伝えでみた。
「違う違う」
 少し慌てながら、成幸くんは否定する。
「俺は、文乃のことは全部好きなんだから。髪が長い文乃は、これまでも、これからも、ずっと好きだよ」
 そういって、彼は笑う。嘘みたいだと言われるかもしれないが……わたしは、その言葉と彼の笑顔で、ドキドキしてしまうのだ、いまだに。
「髪が短くなった文乃だって、すぐに好きになるよ」
「……成幸くん、ありがとう」
 そう言って、はにかむしかなく。だが……。
「結局、切るか切らないか……決められないんだよね」
「あのさ」
「うん?」
「今、文乃が一番逢いたいひとは誰だ?」
「……えっと」
 誰だろう。一番愛しているのは成幸くんで、ずっとそばにいてくれる。だから、『逢いたい』とは少し違う。高校生の頃の友達だろうか?でも、何かしっくりこない……。
 迷うわたしに対して、成幸くんは笑いかけてくれると、一瞬、わたしのお腹に視線を向けて。
「……赤ちゃん……!!」
 成幸くんはうなずいた。
「どんな文乃を見てほしい?髪の長いお母さんなのか、髪の短いお母さんなのか。もちろん、俺はどちらでも文乃を愛してるし、俺たちの赤ちゃんも、文乃をお母さんだと慕うに決まってる」
「でも、お母さんとしてさ、どんな姿を見せたいのか?それを考えても、いいんじゃないか」
 成幸くんのその言葉で……わたしの迷い続けていた『答え』は、容易に決めることができたのだった。

 

終わりに

 

「なんだい、残念だね」
と言葉ほど残念がらずに、笑ってくれる銀星珈琲のマスター。
「あたしは、こっちじゃないほうを見てみたかったんだけど」
 結局、わたしは髪を切らずに、長いままでいることに決めた。また、マスターのご好意で、わたしは本来定休日の銀星珈琲にきている。
「わたし、自分のお母さんも、髪が長くて。それに憧れて自分も伸ばし始めたんです。そのことを思い出したし……長い髪のお母さん、として、赤ちゃんにはわたしを見てほしい、そう思ったんです」
「それでよかったと思うよ。まったく、麻子さんは最初からわかってたんじゃないの、文乃ちゃんが髪を切らないって」
「いいや?ただ、この子の旦那なら、たぶんこういうだろうな、とは予想していたよ」
「成幸くんねえ。文乃ちゃん、相変わらず、いい旦那さんだね」
 呆れながらそう言ってくれる天津先輩。わたしは、愛しい旦那さんのことを思いつつ、もうすぐ逢える赤ちゃんのことも考えながら、その言葉に大きくうなずくのだった。

 

(おしまい)