古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

光彩陸離たる星々の行方はただ[x]のみが知るものである③

第六章

 

 俺、唯我成幸は、古橋のその言葉、表情を、何度も思い出してしまう。
『結婚は、してないよ。それに、そういう予定がある相手も、いません!』
 結婚してるのか、の俺からの問い。それに、ふっと真面目な表情を少し崩して、柔らかい笑顔でそう答えてくれたのだ。嬉しそうだったような気もしていて。
 古橋と、『そういう』関係になれるわけでもないだろうに。……いや、それは、そうなったらどれだけ素敵なことだろうか、とはもちろん思わないわけはないのだけれど。一般論として、だ。まあ、それはそれとして。
「〜♪」
 今は、6月。今日は梅雨の合間、たまの晴れの日だ。それだけでも明るい気分になれる。でも、それだけじゃない。古橋の家での食事や、その時のやりとりを思い出して、もっと、明るい気分にもなれる。
「はは、唯我先生、最近ご機嫌ですね?何かありました?」
「いや、なにがってわけではないんですが、つい」
 俺は鼻歌混じりで授業の準備をしていたが、教頭先生に話しかけられて、少しドキッとする。
「唯我先生のクラスの子たちもいってましたよ、最近先生こっそりニヤニヤしてるんだよ!って」
「ほんとですか!……すいません」
「謝ることないですよ。子供たちにちゃんと向き合ってくれさえいれば、ね」
 肩をぽんぽんと叩き、教頭先生は去っていく。遠回しに釘を刺されてしまい、俺はぽりぽりと頬をかきつつ、たしかにまずは目の前の授業に集中だな、と反省するのだった。

 昨日、古橋にメッセージを送っている。
『今度のことなんだけどさ。いつくらいならこれそうだ?俺はいつでも大丈夫だから。忙しいだろうから時間ある時に、教えてくれ』
少し迷って……。
『料理の練習、しておくからな!』
の一文も付け加えて、だ。今のところ、返信はない。まあ、大変なのだろうと思い、そこは待つしかないのだが。
 火曜日の夜、残業があったもののそれをこなして家に到着したのが20:00。あまり残業はしないように決めているのだが、どうしてもしなければならないときもある。しかし、火曜日と木曜日は、20:00までには必ず家に到着するようにしているのだ。
「いただきます」
 今日の料理は、豚バラとキャベツ、人参、もやしの野菜炒め、それにごはんと、わかめと豆腐の味噌汁。野菜炒めの味付けは塩胡椒のみだ。いわゆる、一人暮らしの男の手料理、というやつ。飽きる飽きないではなくて、まあいつもこんなものだ。しかし。古橋にご馳走するとなると、これだけ、というわけにもいかない。今週末にでも、何品か練習しないといけないな、と思い。さらに、部屋の片付けもしなければ、だ。
 片付けといえば。振られた前の彼女である、桜さんのパジャマや、ドライヤー、化粧道具一式。すでに部屋の隅にまとめてあるのだが、いまだに取りに来る気配はない。こちらからできましたよ、とりにきてください、という話でもないような気もしていて、待つしかないのだろうが。……なぜだろう。いつも物事はきっちりしている桜さんにしては、ルーズな対応で。いい予感はしない。
「気分を変えるか」
 そう独り言とともに、テレビをつけてみる。
 民放の『クロス・トーク』という番組がある。夜9:55から5分間の、芸能人や各界の先進気鋭の若い世代が対談をしていて、それが短い時間にまとめられているもの。俺と同世代の活躍している人たちの話は刺激になるし、子供たちに話す授業のネタにもなるので、よく見ているのだが。前と同じだ、びっくりして目は釘付けになり、音量を慌ててあげる。
 そこには、知っている人間が2人。一人は、出前授業で見たことのある、確か帝都大学の准教授だった、さわやかな都森先生。そしてもう一人は……古橋、だったのだ。
『ミクロをつきつめる。マクロをつきつめる。僕の遺伝子工学と、古橋先生の天文学の道のりは、似ています』
 そう、古橋に語りかける都森先生。
『そうですね。少しだけ、都森先生の論文を読ませていただいたんですよ』
『へえ、ありがとうございます。どうでした?』
 都森先生は、古橋の言葉に、少し前のめりになったように見えた。
『正直、全然わかりませんでした!ごめんなさい、あはは』
 明るく笑う古橋。彼女らしく、テレビの前で俺も思わず笑ってしまう。
『でも、自然を観察し続ける。そのアプローチは同じかもしれません。そういう意味では、結果を出し続けている都森先生は同じ歳ですけど、尊敬しています』
 会話は弾んでいる。……俺のやっかみかもしれないが。都森先生は、古橋の発言へのリアクションが大きい。言い方を変えれば、古橋を気に入っているようにも思えて。正直、面白い気分では、ないのだった。
 と、その時。ブー、ブー。ブー、ブー。携帯が震える。メッセージだ。少し緊張して見てみると、古橋からだ!例え彼女がテレビに出ていても、俺は直接連絡が取れるのだ。だから、大丈夫。そんなことを自分に言い聞かせて、開封した。その内容。
『最近、かなり忙しくなってきたの。ご飯は、いつになるかわからない。なかなかメッセージのやりとりもできないかも。ごめんね』
 遠回しに、断りの内容じゃないか……?
 俺は愕然とする。ショックを隠せないまま、すぐに二通目がきた。
『成幸くん。あんまり、女の子を勘違いさせたらダメだよ。彼女がいるのなら、教えて欲しかったな』
「???」
 俺は混乱する。彼女?誰のことだ?付き合っていたのは桜さんだが、俺は古橋と会っていた時にはとっくに振られていたし、その話はしていない。桜さんと古橋に面識があるはずもないし。古橋は何かを誤解しているようだ。しかし、突き放す文面のメッセージが続けられたわけで。すぐさま誤解を解くような返事をしても、余計に聞いてもらえそうにないのだ。俺は、次にどう行動すればいいのかわからずに、戸惑うばかりなのだった。

 

第七章

 

 俺は、赤坂の外れにあるバー『やまびこ』に来ていた。桜さんにメッセージで呼び出されたのだ。
『成幸君、改めてお話したいことがあるの。木曜日の21:00に、『やまびこ』まで来てくれない?勝手なこと言ってるのはわかってる。でも、ちゃんと直接話したいの。荷物は、私の家まで着払いで送ってくれていいから。あなたが来るまで、待ってる』
 正直、迷った。行くべきなのか、どうか。でも、桜さんは決めたらやり通す人だ。おそらく、俺が行くまで待っている、というのも本当だろう。さすがに、夜中遅くまで女性をひとりで待たせられない。急に呼び方が、成幸君、に戻っている不自然さには気づきつつ、だ。
 店に入る。ここは、桜さんに教えてもらって以来、デートの締めくくりによく使っていた。この店からの帰り道で、キスもしたし。ホテルにいったこともあったし。思い出は、ある。ただ、今の俺には遠い過去のようなものではあったけれど。
 店の奥、カウンターの端っこに桜さんはいた。彼女の定位置だ。俺と目が合うと、ほっとしたような笑顔を見せてくれて、片手をあげてこっちこっち、と呼ばれる。俺はぺこり、と頭をさげると、彼女の隣へと腰掛ける。彼女は、口はつけていないが、すでに一杯頼んでいた。いつもの、であれば、たぶんキールだ。それくらいは、まだ、覚えている。
 薄暗い大人の照明。かちゃかちゃ、と静かに老バーテンダーがお酒を調合する音がする。ジャズが会話を邪魔しない程度に、流れていた。いつもの雰囲気。俺と桜さんの距離は、もう違うのに、だ。
「来てくれてありがとう、成幸君。もう会えないかと思っていたから、嬉しいよ」
 思っていた反応と真逆で、俺は戸惑いを隠せない。なんと返せばいいのかも、わからない。まさか、俺もです、とは言うべきではない気もしたし。
 その間、桜さんが口を開いた。
「この前は、別れよう、なんて言ってごめんなさい。あれから、いろいろ考えたの。私、感情的になりすぎていたみたいで」
 桜さんは、まっすぐに俺と目を合わせたまま、続ける。
「やっぱり、私、あなたのことが好き。もう一度、付き合ってくれないかしら?」
 桜さんの目は真剣だ。一見嘘はなさそうだった。でも、俺は二つのことがひっかかってしょうがなかった。
 一つ目。桜さんは一度決めたことはやり通す。一度別れようと言った以上、その言葉を翻すなどあるはずがない。
 二つ目。桜さんは嘘がうまい。他人に決して悟らせない。おそらく何かを隠して、嘘をついている。
 そっと、桜さんが右手を俺の左手に重ねてきた。唇も色気があり、その瞳は、うるうるして、男性の庇護欲を刺激している。
 周囲からすれば、雰囲気のよいカップルに見えるかもしれないが。
「ねえ、成幸君……。今夜はこのまま、一緒にいてくれないかしら。そう、朝まで……」
 桜さんは、そう甘い言葉もかけてきた。
 俺は、返事をする。何の迷いもなかった。

 

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「桜さん、また付き合うというのは、無理です」
「……どうして?」
 ネガティブな俺の返事に対して、桜さんはまず理由を尋ねてきた。理路整然としている、彼女らしい。
「桜さんが知っている通り、俺は嘘が下手です。だから、隠さずに言います」
 少し呼吸を落ち着かせて、俺は続ける。
「俺、他に気になっている人がいるんです。そんな気持ちで、今は、桜さんの気持ちに応えられないです」
 多分、望み薄だろう。それでも……今、俺の心の真ん中には、古橋文乃しかいないのだ。
「……そう」
 桜さんは、悲しげな表情で、静かに俯いて。しかし、もう一度顔をあげた時。それは、豹変していた。恐ろしいほどの、満面の笑顔を浮かべていたのだ。
「古橋文乃。そうでしょ」
「!?」
 接点など何もないはずの古橋の名前が、突然桜さんから飛び出して、俺は驚くほかない。
「天花大学理学部天文学専攻准教授。若手の天文学者としてはピカ一の評価を受けている。テレビ番組にも出演している。彼女は断り続けているようだけど、たくさんの引き合いがあるらしいわ」
「父は古橋零侍。安定した実績のある数学者。母は古橋静流。たくさんの名のある賞を総なめにしていた天才数学者だったようね。早くに亡くなったみたいだけど」
 淡々と、古橋についての情報が流れ出る。
「あなたと同じ一ノ瀬学園。そして、同級生。昔教えてくれていたわ。教育係をしていた天才がいて、皆今は夢を叶えているって。確か、天文学に進んだ女の子もいたと言ってたわよね」
「ど、どうして……」
 俺は狼狽するしかない。
「会ったの。あなたの部屋の前でね」
「古橋が、俺の部屋の前に?」
「すごい美人がいるな、と思ってね。その時はわからなかったけれど、あとから思い出した、それが、彼女だった。よく知ってると思った?少し調べただけよ?」
「ねえ、成幸君」
 満面の笑顔のまま、桜さんは続ける。
「誠実ぶっているあなただけど。本当は私と付き合っている間も、彼女といい仲だったんでしょう?そして、私を馬鹿にしていたんでしょう?さらには、私から別れ話を切り出されて、嬉しかったんでしょう?」
 そうじゃない!俺は慌てて訂正しようとする。
「違います、俺は……!」
しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嘘をつくなっっっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然の店中に響く大声!桜さんは、全身から怒気を発している。表情も、見たことがないほどに、怒りに満ちたものだった。

「私があなたを呼びつけたのはね。思いっきり憎しみをぶつけてやろうと思ったから」

「あなたの一見いい人で、誰にでも優しいところ。今思えば、それは誰かに本気で好きになれないからできたことだと気づいたわけ」

「私とキスやセックスはしていても、どこか上の空だった」

「あなたは空っぽなのよ。だから、誰かを好きになることもない。いや、好きになることが『できない』」

「あなたは、絶対に、幸せになれない。いや……なるべきではない。そして、誰かを幸せになど『できない』」

 あまりの剣幕で続けられる罵声に、ただただ圧倒されてしまう。
「桜さん……」
 その瞬間、バシャッ!!とカクテルが全身にかけられた。
「二度と名前で呼ばないでくれる?」
 彼女は、一転して、冷たい表情と声に戻っていた。そして、自分の荷物をまとめると、

「私はあなたを憎み続けるっ!あの女もっ!」

 そんな言葉を投げつけて、こちらを振り返ることなく、カッカッと早足でその場を立ち去っていくのだった。
 何にショックを受けたらいいのやら。途方にくれる俺。
「かけた言葉は必ず跳ね返るものですよ。気にしすぎないほうがいい」
 そう、老バーテンダーは俺にタオルを渡すとともに、そんな言葉をかけてくれたのだった。

 

第八章

 

 その日の深夜。切り替えがただでさえ下手くそな俺は、桜さんに言われた言葉にかなり打ちのめされていた。
 話を聞いてもらいたい人が、いる。
 メッセージを送っても、もう返事は二度とこないかもしれなかった。しかし、俺が本音で話せる、いや、話したい人は、いま、この世にはたった一人だけ。古橋文乃だけだった。
 少し迷ったものの。
『古橋、ごめん。頼みがあるんだ。少しだけ、話を聞いてもらえないか。結構、参ってしまうことがあってさ』
 そんなメッセージを、届いて欲しい、と思いながら送る。身勝手だとも思う。古橋が持つ疑いを晴らせていないまま、こんな連絡をするのだから。はあ、とため息をつく。……もう、古橋とは会うことすらできないのだろうか。そのことを考えるのは、かなり辛いことだった。受け入れるのには、かなりの時間が必要かもしれない。
 その時。ブー、ブー。携帯が震える。まさか、と思いメールボックスを開いてみると。古橋からのメッセージだった。
『土曜日の早朝に、15分だけでよければ、いいよ』
 返信が早くて驚くとともに、話を聞いてくれそうで安堵する。土曜日も特に予定はない。
『ありがとう、助かる。どこに行けばいい?』
 すぐにリアクションがあった。
『天花大学の南門の近くに、『銀星珈琲』っていう喫茶店があるの。そこに、朝の6:30に来てくれるかな?お店は開店前なんだけど、店主の人にはお願いしておくから。早くにごめんね』
と、店のURL付きで連絡があり。
『こっちこそ、急なお願いなのにありがとう。じゃあ、銀星珈琲、そこにその時間に行くよ』
 そう返事をした。また、古橋に会える、という高揚感よりも、今は。頼りになる友人に、悩みを聞いてもらえる、という安心感が強かった。
 冷蔵庫を開けた。缶ビールが一本あった。せめて少しだけ酔って眠りたかった。今夜のことが夢に出ないように、いつもよりも、深く、深く、眠りたかったのだ。

 

⭐️

 

 土曜日、6:25。少し早いが、俺は古橋から指定されていた『銀星珈琲』の前まで来ていた。確かにまだ開いてはいない。店主に伝えておく、と言ってはいたが……。店を覗き込もうとすると、ドアが開いた。
「うちの店を開店前から待ち合わせに使う不届き者かい?」
背は高くないけれど、背筋がピンと伸びたおばあさんに話しかけられた。言葉ほどは機嫌は悪そうではなくて、むしろ面白がっているようだ。
「あ、はい。おはようございます。あの、古橋からこの店にきてくれ、と言われたんですが……」
「お姫様は中でお待ちだよ。さ、開店まであまり時間はない。手短にね」
 入った入った、と手招きされて、俺は店の中へと入った。少し奥の席に、彼女は待っていてくれた。
「古橋!」
「おはよう、成幸くん」
 そういって、少しだけぎこちなく、古橋は笑ってくれたのだった。

『あのっ……』
 古橋の待っていてくれた席に着くなり、お互い話しかけようとしてしまった。見あってしまい、お先にどうぞ、と俺が古橋に話を促した。古橋は、少し沈黙を挟み、少し覚悟を決めたような顔をして、口を開いた。
「成幸くんに、あんな綺麗な彼女さんがいたなんて、知らなかったの。おにぎりを持っていってしまって、ごめんなさい。誤解をさせてしまっていたら、悪いなって、ずっと思っていて。大丈夫だった?」
 俺は、目をぱちくりさせるしかない。
「髪の短くて、目が少し吊り目で、背が高い女の人?」
 こくり、と古橋がうなずく。少し、迷った。自分の中の気持ちすら整理できていないけれど……。今、確かに気になっている女性に対して、振られた彼女について、どれだけ言及すべきか、どうか。でも、隠す理由は、ない。だから、素直に話そうと決める。
「……水原桜さん。二年間付き合っていたんだ」
 古橋は硬い表情になっていた。どんな気持ちなのかは……読み取れない。
「でも、古橋に久しぶりに会えた前の日に、振られたんだ」
 今度は、古橋が目をパチクリさせていた。
「振られた……?いま付き合っているわけでは、ないの……?」
「うん。今は恋人でもなんでもない」
 そっか、と古橋が小さくつぶやく声が聞こえた。
「成幸くんと、わたしの家でご飯を食べたじゃない?その三日後の夜に、成幸くんが忘れていったハンカチと、おにぎりを、成幸くんのおうちに持っていったんだ。その時に、お部屋の前で、水原さんだっけ、その人に会ったの」
「そうだった、のか」
「その時には、成幸くんとまだ付き合ってるような言い回しをしていてね、わたしが成幸くんに渡したかったものも預けたんだけど……」
 知らない?と続いて、俺は力なく首を横に振った。桜さんのことだ。怒っているとしたら……あまりいいように扱うわけがなかった。
「えっと、ね。わたし、確認したいことがあるの」
 古橋がかなり真剣な表情へと変わった。
「成幸くんは、いま、付き合ってる人は、いるの?」
「いないよ。いるわけがない」
「……よかった」
 そう、古橋が安堵しているようだ。表情も、いつもの柔らかいものに戻る。その理由は、はっきりとわからないけれど。だが、古橋が持っていた誤解も解けたようで、俺も安心する。
「ごめん、話が逸れたね。成幸くんが、聞いてもらいたい話って、なんだったの?」
と、古橋が切り出してくれた。
「えっと、な。その、桜さんに、この前、呼び出されたんだ。そして、言われたんだ。ヨリを戻さないかって」
 ぴくっと、古橋が身体を反応させる。
「俺は、もう、好きではなくなっていた。だから、無理だって、すぐに断ったんだ。そしたら、さ」

『あなたは空っぽなのよ。だから、誰かを好きになることもない。いや、好きになることが『できない』』

『あなたは、絶対に、幸せになれない。いや……なるべきではない。そして、誰かを幸せになど『できない』』

「そう言われてしまって。堪えたよ……。誰かを幸せにしたくて、ずっと走ってきたつもりだった。でも、そのことを、よりによって一度はそうしたいと思っていた人に、完全に否定されてしまってさ」
 そこで俺は宙に視線を向けた。
「……ごめん、古橋。変な話で。解決してほしいわけではないんだけど……。ただ、誰かに打ち明けたくて、さ。まず、古橋の顔が、思い浮かんだんだ」
 うまくできたかわからないが、俺はなんとか笑顔を浮かべようとする。その時だった。
「成幸くん、手を出して」
「?」
 意図がわからないまま、俺は膝の上に置いていた両手を机の上にだした。
「!」
 すると、古橋が俺の両手を、そっと包み込んでくれた。古橋の手は、あたたかくて、優しい温度で。だが……気になる女性の手でもあるのだ。心臓が早鐘を打つ。
 そして、俺がよく知っている、引き込まれるような綺麗な笑顔で、話しはじめた。
「成幸くんは、わたしを幸せにしてくれた。夢を追いかける力をつけてくれた」
 古橋は、そうでしょ?、と小さく頷く。
「りっちゃんも、うるかちゃんも、小美浪先輩も、そう。もしかしたら、桐須先生も、そうだったかもしれない」
 だからね、と続けて。
「あなたはもう、誰かを幸せにすることが『できる』んだよ。そして、これからも、きっとそう」
 にっこりと笑ったまま。
「いつか巡り合わせで、出会う人のことをきっと好きになることだって『できる』よ!」
そして。
「わたしが保証する。成幸くんは、幸せになっていいんだよ」
 そして、古橋は俺を励ますよう、最後に大きく頷いてくれた。そこに、迷いも、嘘も、そういう気持ちは何一つなかった。あるのは、ただ一つ。古橋が俺に向けてくれている、まっすぐな想いだけ。
 古橋の両手から伝わる体温。それだけなんかじゃない。信頼、感謝、親愛。そういったものが、たくさんたくさん流れ込んできて、傷ついた心がすぐに修復されていった。
 俺の心の真ん中で、古橋への気持ちが、大きくなっていることに気付く。その気持ちのまま、ふるは、と口にしかけた時。
「はいはい、おふたりさん。大変雰囲気のよい中で申し訳ないんだがね。すでに7:30。開店時間を過ぎていて、外で待ってる客もいる。まだまだ老体に鞭打って働かないといけなくてね、店は潰せないんだよ。続きはよそでやってくれるかい?」
 そう、苦笑いをしている店主に声をかけられた。慌てて手を離す俺と古橋。二人で顔を真っ赤にし、視線を交わす。照れながらお互い笑ってしまい……。荷物をまとめて店を出る。
「今日はありがとう、古橋。元気でたよ!」
 俺は、心の底からそう思えた。古橋のおかげだ。
「成幸くんの役に立てたのなら、よかった!」
 そこで、もごもごと古橋が何か言いたそうにしていて。
「どうかしたか?」
と問うと。
「わたし、やっぱり、成幸くんのおうちに行きたいな。今日の分もあわせて、ご馳走にデザートもつけてもらわないと!」
 そう、顔を赤らめながら言ってくれて。
 俺は肯定の意を込めて、満面の笑みで何度も何度もうなずく。
 にこにこしている古橋。それだけでも嬉しいものだが、彼女への気持ちは、少しずつ、でも、はっきりと、俺の中で変わりはじめているのだった。

 

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(続く)