古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

彼等は駆け抜ける彼女に[x]を重ねるものである(前編)

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はじめに

 

あたし、橘絵馬は、数秒だけ自分の目の前のレーンを睨みつけた。そして、5メートルほど先のコースに視線を向ける。スタートを、丁寧に、確実に、いつものように、加速するためだ。小さく息を吐く。中学一年生から高校三年生まで続けてきた、中距離陸上種目ー今の戦場は『陸上の格闘技』とすらいわれる800メートル走だーでの、ルーチンだ。青春の全て、そう言っても過言ではない、あたしの陸上人生。その最後の公式大会となる、県主催の陸上競技大会の決勝がその舞台だ。不足はない。ここに選ばれた8人の中のひとりとして、戦い抜く。

 

「オン ユア マークス…………」

 

スタート位置に立つ。殺気立つこの瞬間は、正直心地よいものだ。自分が鍛え抜いた全力をぶつけ合うのだから、ただの緊張感ではつまらない。空気の揺らぎすら、いまは感じられると思えた。それくらいあたしは集中できている。あたしを含め、居並ぶライバルたちの動きが静止する。

 

そうしてーーー……。

 

パァンッ、と、号砲が鳴らされ、その瞬間にあたしはその音を置き去りにする。中距離種目での最短・最速種目の、始まりだ……!

 

スタートから100メートルの、いわゆるブレイクラインまではレーンごとに走る。先行逃げ切りが得意なあたしとしては、ブレイクラインはできればトップでとりたい。かなり快調だ。スタートからわかる。足元の跳ね具合がちょうどよくて、前に進む力に全部きちんと転換してくれている。身体の隅々までコントロールできていて、思い通りに身体を動かせる楽しさがある。身体が感じる風の切り方も理想的なものだ。その勢いのまま、狙い通り、ブレイクラインはトップで通過!

 

ここからは全く別のフェーズの競技になる。コースの位置どりや展開を巡る駆け引き、時には選手同士の接触や転倒さえある。独特だ。200……300……、あたしは誰も目の前にいないコースを懸命に走り続ける。はっ、はっ、浅く吐く息の音さえ響いて聞こえる。だが、ぶっちぎっているわけではないのだ。ほぼ間をおかずに背中に2人がついてきているのはわかる。残りの選手も、いまは少し離れているようだがいずれ加速はしてくるはずだ。そんなことを一瞬頭に思い浮かべながらも、きちんと身体を隅から隅まで完璧に動かせていて。そのまま。400。

 

からんからんからん…………!

 

ラスト一周の鐘が鳴らされる。わたしは今のところ、まだトップだった。まだ、ね。どこまでいけるか。勝負どころを見据えながら、全身の感覚をレーダーにしつつ、ペース管理にも気をつけて。駆ける、駆ける、駆ける!そして、600。ぐわっと、と危険を察知したのか、肌が反応した。殺気が膨れ上がったのだ。ドドドド、と暴力的とさえ言えそうな足音が響く。そして。一人、いや二人だ。あたしの今のスピードに上乗せされた加速で、抜きにかかってきた。これまでの決勝のレベルでは、いつもここから何人かに先をいかれてそのままになってしまうことが多くて。だけど、今日は。そうは、させない。ふうっ、と少しだけ気合いを入れて息を吐き、気持ちを入れ直すと身体のギアを切り替えた。今までとは違うよ、というのを、抜きにこられた彼女たちより早いペースにして立ち塞がる形にする。!?、という声にならない驚きがあったようにも思うが、いま考慮すべきではなく。

 

残り200メートルを、残された力でどう配分するか。今のあたしは、600、いや、今は650だ、ここくらいで、スパートをかけようとしていた。すごくリスクが高い。でも、少し長めのスパートに耐えうる練習を重ねてきたのだ。今日のあたしが駆け抜けるために、やってきたことを……今、ここで。出し切る……!!

 

ぐわっと、あたしはストライドを伸ばす。加速するには、ピッチをあげるか、歩幅を広げるか、あるいはその両方が必要だ。あたしもいろいろ試行錯誤したのだが、頭のイメージとしては、足の大きさくらい、20センチと少しを広げながら走るのがいちばんしっくりきて、効果的に加速できたのだ。それを今、ギアを上げてトライしている。

 

後続の二人はあたしの加速についていくのかどうか、めんくらったようで一瞬の迷いを感じて。その一瞬さえ利用して、あたしは突き放しにかかって。カーブを600から700にかかるカーブを我ながらベストのかたちで綺麗にまわって。そして、ラスト100、ストレートに入った。いまだ、あたしはトップだ!

 

いつもなら、700の時点で何人かが目の前にいて、着いていくのが必死だった。今日は、決勝というレベルの高い舞台では初めてだ、まだ、目の前には誰もいな、…………!その時だった。気にしていた二人ではない、もう一人が外から凄まじく加速してあたしと並んだのは!もうここまでくると、綺麗なフォームで走ることは、意識の問題というよりは身体の問題、どれだけ叩き込んできたのか、による。それを信じて、必死で手足よ動けよ、と念じながら、がむしゃらに身体を動かす。あたしと競っている一人は、たしか400メートルのタイムがあたしよりも上、現に今、あたしよりも身体が少し前に出ていた。残りは50メートルもない……!

 

800メートル走は、本当にきつい種目だ。何度やめたいと、種目を変えたいと思ったことか。殺人的なのだ、スピードも、その維持も、駆け引きも、さらにはとっておきの力をとっておいて振り絞ることさえも、求められる。めちゃくちゃだ。だけど。走り終わった時の、自分のエネルギー全部を出し切った時のあの感覚は……最高でもあって。駆け抜けるあたしの全力なんだ、と自信を持って言えるから。

 

だから、あたしは。ここにいるのだ。

 

きつい、きつい、きつい。はっ、はっ、ではない。息の仕方。もう、ぜえ、ぜえ、ぜーだ。早く、おわれ、おわれ、と思いながら競い合って。いっぽ、いっぽがスローモーションにすら見えて、身体に必死で鞭を打つ。進む、前へ進む。それを繰り返すと、その先には、ゴールが見えてきて……。こんなきついこと、おわれ、おわれ、おわれ、そして……走るのがすきだ、終わらないで!と刹那頭をよぎるのと、倒れ込みながらゴールしたのは、同時だった。先頭だったかどうかは、わからない。だけど、あたしのベスト、いや、もっと言えば、ベスト中のベストはやりきったのだ。荒い息を吐きながら、あたしは倒れたまま、ガッツポーズをする。

 

スタンドからの部活の仲間たちのねぎらいの声援が、わあっ聞こえてきた。いつもなら走っている途中でも気になるのだが、今日は全然聞こえなかった。

 

そこで、もう一人。

 

「絵馬ちゃーん!!!すごかったよー!!!おつかれさまー!!!」

 

あの人、とっても綺麗な美人が、こんな大声を出せるのかと驚き、視線だけそちらに向けた。応援にきてくれたのだ、あたしの家庭教師の先生、古橋文乃さん。あたしは文乃せんせー、と呼んでいるその人が、大きく、大きく、手を振りながらあたしに必死で声援をおくってくれていた。流石に手を振り返すほどの力は今すぐには残ってない。あとから挨拶にいかなきゃ、と思いつつ。そうだそうだ、頑張ったら『とっておきの美味しいもの』をご馳走するよ、と言ってくれていたっけ。思わずにやっと笑ってしまいつつも。あたしは視界いっぱいに広がる雲ひとつない青空を見上げて、爽快感が胸いっぱいに広がっていくことを感じていたのだった。

 

第一章

 

「絵馬ちゃん、本当におつかれさまでした!」
「文乃せんせー、ありがとう!いやあ、我ながら頑張ったんだよ?結果は、2位だったけどさ。記録も自己ベストだったんだ、2分13秒48!けっこー、速かった。だから、悔いはなし、だよ!」
絵馬ちゃんはわたしの口癖を真似てそんな言い方をしてくれて、お互い可笑しくて笑ってしまった。

 

今日は、わたしと絵馬ちゃんの、デートなのだ。絵馬ちゃんは、デニムのジャケット、白地のTシャツに、薄めの赤色のスカート。わたしよりも少し背は低いくらいなのだが、手足が長くて小顔なのだ。ばりばりのアスリートだったから、余計なお肉なんてあるはずもなく、本物のモデルさん体型だと思う。さりげなく着こなせている今日の服装は、よく似合っていて。わたしが男の子なら、一目惚れをしてしまっているところだ。

 

絵馬ちゃんの高校最後の大会から数日後のこと。わたし、古橋文乃と絵馬ちゃんは、都心のとあるカフェにきていたのだった。大学の友人に教えてもらった、甘党女子垂涎のスイーツが自慢のお店なのだ。さあ、お目当ては……。


「うわあ……すっごいパンケーキ!クリームたくさん!フルーツたっくさん!わ、わ、美味しそう!!」


「そうでしょう?絵馬ちゃん、大会のために甘いもの最近ずっと控えてたんんだよね。さあ、今日は、思いっきり食べてね!」


もうこちらまで嬉しくなるくらいの満面の笑顔の絵馬ちゃん。♪マークが宙に浮かんでいるように錯覚するくらい、ご機嫌だ。しかし、だ。わたしも同じものを頼んでいま目の前にあって。これはまあ、たしかに素晴らしいものだ。直径15センチくらいの結構厚みのあるふわふわのパンケーキが2枚重ねられている。そこに、イチゴ、キウイ、バナナと、フルーツがこれでもか、というくらいに盛り付けてあり。さらにさらに、生クリームも惜しげもなくたくさんつけられているのだ。お菓子づくりの修行を海外でしてきたシェフが監修しているらしく、生クリームがまた上品でいくらでも食べられてしまうらしいのだ。いやはや、こんなに幸せな食べ物は、ない。カロリーはこの際無視だけれども。そういうわけで、
「文乃せんせ、」「絵馬ちゃん、」
『いただきまーす!』
と、わたしと絵馬ちゃんは、目の前のパンケーキをパクつくのだった。

 

⭐️

 

お互い、同年代の女の子と比較しても、けっこうはやくに、パンケーキ、フルーツ、生クリームをぺろりと食べきってしまった。いやあ、これもまた、幸せ。至福だ。美味しいものをおなかいっぱいに食べ終わったあとというのは。さて、食後に、わたしはコーヒーを、絵馬ちゃんはレモンティーを頼んだ。
「文乃せんせー、ほんとうに全部ごちそうになっちゃって、いいのかな……」
と、律儀に絵馬ちゃんが聞いてくる。
「もちろん、わたしがごちそうするよ!なんてったって、あれだけかっこいい絵馬ちゃんを見せてもらったんだから。わたし、正直感動しちゃったんだよ」
「……感動……!?」
大袈裟な、というように大きな目をさらに見開く絵馬ちゃん。
「応援しているわたしが、反対にパワーをもらったんだよ?積み重ねた努力を、全部力にかえて出し尽くしていることが、伝わってきた。あなたの緊張感や、苦しさや、頑張り、その全部に、すごくドキドキした。誰にでもできることじゃない」
あの時感動したのがなぜか、それを言語化して、伝えようと頑張ってみる。
「なんて素敵なアスリートなんだろう、そう、思えたの」
お世辞でなく、わたしはそう付け加える。
「……ほんと?嬉しい、かも……」
絵馬ちゃんは、そう言ってはにかんでくれた。わたしは、少し迷ったが、とある話題を振ってみる。やはり、聞きたくて。
「本当に、もうやめちゃうの?800メートル走だけじゃなくて、陸上選手も」
「……うん」
そう答えた絵馬ちゃんの寂しさは……隠せていない。ここに至るまでの、絵馬ちゃんの苦悩を感じざるを得なかった。その時、飲み物が運ばれてきて、少しだけ、間があいた。
「……あのね」
「もし、この先。本気で、陸上競技、800メートル走で上を狙いたいのなら。まずは、2分10秒は、簡単に切らないと話にならないんだ。国体の800メートル走のベストは、2分00秒。すっごく……遠いんだ。あたしも、少しは、実力があったからさ。だから、余計にわかっちゃうんだよね」

 

「届かないなあ、って……」

 

そう小さな声でつぶやいて、絵馬ちゃんは宙を見上げた。その視線の先には……グラウンドのレーンは、もうないのかもしれず。

 

「でもさ。夢は、できたんだよね」


絵馬ちゃんの声のトーンが、あっという間に変わった。わたしは、ひとつうなずくと、その先を促した。聞かせて、と。
「あたし、人に走り方を教えるのって、好きなんだ。全力で走ればいい!っていうだけじゃなくて、さ。腕の振りが弱いから、少し肩周辺の筋トレをしてみようか、とか。ペース配分がおかしいから、一流選手のそれを練習で再現して身につけてみよう、とか。頑張り方を、間違えないようにさせてあげたいと思ってる」
絵馬ちゃんは……とってもいい顔をしていて。
「あたしたち、高校生の時間は結構限られているから。その中で、正しい努力をして。めいっぱい頑張らせて、自分の昔の限界を、どんどん乗り越えていけるお手伝いができるコーチに、なってみたいんだ!」
「そのためには、ちゃんとコーチングを理論から学べるようにならなくちゃ。数学だけに、足を引っ張られている場合じゃあ、ないんだよ。あたしは数学が苦手だったけど、今は違う。数学を好きに変えてくれた、最高のせんせーが、いる」


「だから、大丈夫!」


わたしに向かって、さわやかな笑顔とともに、びっとVサインをしてくれる、絵馬ちゃん。

 

なんて誇らしいことなんだろう、そう思った。こんなにしっかりと前を向いて、かっこよく夢を追いかける女の子に頼ってもらって。全力で応援させてもらえるのだから。絵馬ちゃんのまっすぐなわたしへの信頼に胸をうたれて、わたしはしばらく、大きく、うん、うん、とうなずくことで精一杯なのだった。

 

⭐️

 

頼んだ飲み物をくぴくぴと飲みつつ、絵馬ちゃんとのおしゃべりは続いた。まるで、仲のいい妹みたいで。すごく、楽しい時間だ。話題は。例えば、絵馬ちゃんに似合うファッションはどんなものか、とか(絵馬ちゃんは本当にすらっとしているモデル体型なので、シンプルなお洋服をメインにして、小物を可愛くさすれば、すごく似合うと思うよ!と熱く主張した)、絵馬ちゃんの学校の近くにある、一緒に、一本のみたらし団子を食べると両思いになれるというジンクスがあるお団子屋さんの話とか、わたしの大学生活の豪快な話(この前他大学との交流コンパがあったとき、セクハラ気味だった院生を天津先輩が投げ飛ばしたのだ。合気道の有段者で、「大虎系美人」のあだ名を持つ先輩は伊達じゃないのだ)とか。


そんな話題で盛り上がって、一息ついたとき。
「あの、さ。今、あたし付き合ってる人がいるじゃない?」
「うんうん」
知っている。同じ部活で、絵馬ちゃんを応援してきたという、優しそうな男の子。ふたり、とってもお似合いなのだ。
「文乃せんせー、はじめてのキスって、いつだった?」
思わず、口にしていたコーヒーを吹き出しかけた。
「いい雰囲気には何度かなるんだけど……。彼氏が、いまいち踏み込んでこないというか」
「……あたしは、キスしたいんだけど……」
可愛い。絵馬ちゃんは、可愛いのだ。顔が真っ赤で、でも、彼氏のことが大好きなのが、よくわかってしまう。
「なんかさ、文乃せんせー、アドバイス、ないかな?」


初めての、キスか。

 

忘れるわけはない。

 

わたしと成幸くんの、とっても大切な思い出であるのだから。真剣に悩んでいる、とっても可愛い教え子に何か言えることがあるだろうか。その時のことを、わたしは思い返すのだった。

 

(後編に続く)