唯我成幸の場合
「友達の家にも電話してみたんだけど、やっぱり幸乃来てないって…どうしよう」
文乃は泣きそうな顔だ。時刻は8時過ぎ。確かに、中学生の女の子が家に戻っていなければ不安になってくる時間ではある。
事前にメッセージをもらってはいたが、文乃はずいぶんおろおろしていた。幸乃に寄り添えてあげれなかった、と言って。
「もう少ししたら、外見て回ってくるよ。ファミレスで居眠りしているだけかもしれない。この前も、そんなことあったじゃないか」
気休めでも何か文乃が安心することを言わなければいけない。それくらい、文乃は動揺していたから。その時だった。
「……ただいま」
「幸乃っ!」
幸乃の声だ、ただいまを聞いた瞬間、文乃は玄関に駆け寄って。
「よかったあ……」
そこに、幸乃がちゃんといることを確認すると、文乃は膝から崩れ落ちる。
幸乃の隣には、零侍さんがいた。
「いろいろあったようだな。幸乃はうちにいたよ」
「文乃。幸乃の話を、まずはちゃんと聞いてやってくれないか。成幸君。君もだ。頼んだ」
なんの話のことなのか、俺も文乃もわかっていたから。2人で顔を見合わせると、零侍さんに向かって、うなずく。
「あとは、君たち3人で話すべきだ」
そういい残して、零侍さんはうちを後にする。
残された幸乃は、うつむいたまま。
「……幸乃、まずはお風呂に入ってきなさい。それから、ゆっくりと話をしよう」
俺は幸乃と目線と高さをあわせる。幸乃は俺の目をちらり、と見ると、小さくうなずき、浴室へと向かう。
幸乃はまだ、心配そうな文乃とは目を合わせないままではあったが。
「文乃、大丈夫だよ」
そう言って、俺は文乃の肩を軽くぽんぽん、と叩くのだった。
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幸乃がお風呂から上がってきた。パジャマ姿だ。手招きをして、俺、文乃が座って待つダイニングテーブルに向かい合わせで座らせた。皆の目の前には、ホットミルクだ。文乃が用意したもので、幸乃にはチョコレートを溶かせるように、いつものように板チョコのかけらも添えていた。
「……」
「……」
幸乃も文乃も目の前のホットミルクに視線を落としたまま。お互い、話を切り出しにくいようだ。
「幸乃」
俺は、静かに幸乃の名前を呼ぶ。
幸乃は俺と目が合う。瞳には、意思があった。伝えたいことが、きちんとあるよ、という瞳だった。俺はある意味安心した。言葉を交わし合う気持ちがあるのか、どうか。何よりも大切なこと、だからだ。
「宇宙飛行士になるには、どうすればいい?俺はよく知らないんだ。教えてくれるか?」
そこで幸乃はホットミルクを一口飲む。幸乃なりに気合いを入れたのだ、そのことが伝わる。
「あのね」
隣で文乃が膝の上に置いている拳をぎゅっと力強く握りしめたのがちらりと視界に入った。文乃もまた、緊張しているのだ。しっかりと、受け止めてあげよう、そう思っているのだ。
「宇宙飛行士は、宇宙航空研究開発機構、JAXAっていうんだけど、そこが応募をするの」
「簡単にいうとね。自然科学系の大学卒業以上であること。 自然科学系分野における研究とか、3年以上の実務経験があること。宇宙飛行士としての訓練活動、幅広い分野の宇宙飛行活動等に対応できる経験や能力があること。訓練に必要な泳力があること。円滑な意思の疎通が図れるくらいに英語ができること」
「そういった条件をクリアしなくちゃいけない。そして、一年間の選抜期間を経て、宇宙飛行士候補として合格した後、約2年間の基礎訓練を受け、宇宙飛行士として認定されるんだ」
「今のわたしがしなくちゃいけないことはさ。一番は、今の学校の勉強だと思ってる。大学に進学するため、じゃないの。知識をしっかりと身につけて、応用できるようにするための、勉強。文系とか、理系とかじゃない。全部同じくらいにちゃんとしなくちゃ、ダメなんだ」
「一気になれるわけじゃないから。大変だよ。だけど、『できない』って、最初から思いたくないんだ。絶対に。お父さんがいつも言ってくれるみたいに。お母さんが、苦手なことも夢のために克服したみたいに」
そこまで一気に幸乃は話をし終わって、俺と文乃を見つめている。
文乃の方を向くと、文乃は溢れた涙を長い人差し指でそっと拭っていた。俺も涙さえ流していないが、文乃の気持ちはわかる。
まだ中学3年生で、子供だ、そう思っていた娘が。考えられないほど立派にやりたいことを語ってくれて。その力の源泉に、俺や文乃の存在が、確かにいると言ってくれているのだ。ぐっと胸に迫るものがないほうが、おかしい。
文乃が何か話したそうで。俺は視線で文乃に喋るように、促す。
「幸乃、さっきは、ごめんね」
そう言って、文乃は深々と頭を下げる。
「わたし、幸乃の本気の夢に向き合う勇気がなかったんだと思う。せっかく話してくれたのに……ごめんね」
「こんなにすらすら、宇宙飛行士になるために必要なことが、言えるんだね。びっくりしたよ」
「あなたが本気なことは、よおく、わかったから」
そこで、文乃は肩の力を抜いた。静かに笑っている。
「好きなことを、好きなように。好きなだけ、やっていいよ」
「わたしは、あなたを信じて、応援する。お母さんが、成幸くんにそうしてもらったように、ね」
幸乃と文乃は、ようやく目があって、ほっとしたように、お互いが笑顔になっていた。
「宇宙飛行士になるためには、どれくらいの倍率なんだ?」
「応募のたびに、増えてるみたいで。一番最近のだと、応募が1,000人。2人採用だから…倍率は、500倍、だよ」
その話題で、ほっとしたはずの幸乃の表情が少しだけ曇る。文乃がOKなのに、俺から何かネガティブなことを言われるかもしれない、そう思ったのだろう。
「倍率ってあるだろ?何かになりたい時に、数字で表すと、わかりやすくはあるよな。公務員になるにはこれくらいで、人気の銀行に入るにはこれくらいで、とかさ。学校の先生だって、そうだ」
「でも、俺は倍率には意味はないと思っているんだ」
文乃も、幸乃も、俺の話を真剣に受け止めてくれている。
「夢を叶えられたかどうか。それは自分が頑張った結果でしかない。叶うか、叶わないか。……少し違うな。『叶えるのか、それとも、諦めるのか』。だから、俺の中では、1か、ゼロか、なんだよ」
「夢が見つけられていない時。文乃、お母さんが、俺にかけてくれた言葉を、今の幸乃に贈らせてほしい」
俺はちらっと文乃を見て、文乃に笑いかける。文乃も覚えているのだろう、笑顔でうなずいてくれた。
「いつか君が本当にやりたいことを見つけた時は」
「お父さんが」、と俺が。
「お母さんも」、と文乃が。
『全力で応援するよ、幸乃』
ほっとしたのだろうか。幸乃は大きく笑顔を浮かべると、ぽたぽた、と涙をこぼす。文乃が慌てて幸乃にハンカチを渡すと、幸乃はハンカチに顔を埋めて、本格的に泣き始めた。文乃が幸乃の隣に移動して、そっと背中に手を置いていた。
愛する妻と、娘の姿を見ながら、俺は早速自分ができることを考え始めていたのだった。なんといっても、宇宙飛行士だ!教師である以上、子供の夢を叶える手伝いができなくてどうするのだ。まして、それが我が子であれば、余計にそう思う。
『できない』ことは乗り越えられる。
俺も、文乃も、そうなのだ。
俺たちの自慢の娘が乗り越えられないわけがない、そう俺は、いや、きっと文乃も、信じている。
唯我文乃の場合
「お母さん、はーやーくー!」
「待ってよー、幸乃……。若さには勝てないよ、だよ……」
わたしと幸乃は、今日はデートだ。以前から約束していたのだ。幸乃にワンピースを買うこと。
それにしても、いや、もう。幸乃は元気だ。たくさんお店を知っていて、次から次に巡っていく。わたしももちろん楽しいのだけれど、途中からガス欠気味。
見かねた幸乃が、しょうがないなあ、ということで、カフェで休憩させてもらえることになったのだった。
「お母さんは抹茶パフェでいいの?」
「うん。幸乃は?」
「ショートケーキか、ティラミスか……迷い中!どっちも、はだめ?」
上目遣いで幸乃がこちらを見てくる。
「ダメ」
「えー。お父さんはたまにいいよって言ってくれるのにー」
「そうなの!?成幸くん、甘すぎるよ……」
わたしは思わずため息をつく。
「……お母さん、今度お父さんとデートいくんでしょ?」
「!……なんで知ってるのよ、幸乃」
それはひた隠しにしていたことだ。幸乃は友達と図書館に一日行くのだ、という日に、久しぶりにいこう、と成幸くんと密かに計画していて。わたしは、それはもう、楽しみにしていたのだが。
「だって、この前お父さんの手帳が落ちてるから拾ってあげたらさ、書いてるんだもん。『文乃とデート!!』って」
「甘いのはそっちサイドだよ!!」
笑いながら幸乃に指摘され、わたしは頬をかきながら照れるしかない。
⭐️
「幸乃は、宇宙飛行士になったら何がしたいの?月に着陸したい、とか?」
ケーキを食べ終わって、お互いアイスコーヒーを飲みながらの会話(幸乃は結局ケーキを2つ食べた。わたしが折れたのだ)。
「うーん。やりたいことは、たっくさんあるんだけど」
「お母さんと、一緒に仕事ができたら最高だな」
幸乃は目をきらきらさせている。わたしは俄然興味が出てきた。
「へえ、どんな?」
「お母さんが見つけた新しい星の向こう側を見てみたいの。そして、お母さんとお父さんに、その光景を教えてあげたいんだ。お母さんが見つけた星はこんなに綺麗だったよ。そして、その先もすごいよ、って」
「わたしのお母さんはすごい人なんだよ、って。わたしとお母さんは、最高の親娘だって、世界中に自慢したいんだ」
照れながら幸乃はそんなことを言ってくれる。幸乃は、お母さん、そして、わたしに容姿はよく似ている。でも、性格は成幸くんを受け継いでいると思う。言葉が、とてもまっすぐで、相手に届くからだ。
こんなところで、とも思うが、泣きかけて。慌ててハンカチを引き出し、目元を拭う。
今度成幸くんとデートする時はこの話をしよう、そんなことを思う、わたしなのだった。
🚀そして、いつかの唯我幸乃の場合🚀
「Are you ready,Yukino?」
「……ん。It’s all right!」
目の前のコントロールパネルの機器をさっとチェックする。問題はない。
「Take it easy!」
オペレーターのモニはカが声をかけてくれるが、そういうモニカのほうが緊張していて笑えてしまった。
「You,too!」
間髪入れずそう返す。訓練通りやれば、大丈夫だ。随分落ち着いて動けている。自分のメンタルを客観的に見れているし、自分が今すべきことは頭の中で明瞭にイメージできているし、自分の動きも俯瞰して見れている。スポーツ選手でいうところの、ゾーンに近いのだと思う。
「Yokino, you did everything you could.Good luck!」
「Thank you!」
いつも冷静なチーフマネージャーからも声がかけられる。さすがにこの瞬間は気が張っていることが伝わってきた。
あと5分以内に、わたしの乗ったロケットは、宇宙ステーションに行く。お母さんの星の向こう側を見るのは、もう少し先になりそう。でも、そのための、大きな一歩を踏み出そうとしていた。
「お父さん、お母さん。行ってくるよ……!!」
あの時信じてくれた愛する両親を思い浮かべながら、わたしは希望で胸をいっぱいにして、宇宙へと旅立とうとしていた。
(おしまい)