はじめに
桜舞い散る春が好きだ。成幸くんと出会った季節だから。
開放的になれる夏が好きだ。成幸くんと旅館に一緒に泊まったことも大切な思い出であるし、初めてキスをした季節だから。
紅葉が華やぐ秋が好きだ。成幸くんがわたしとお父さんの隔たりを埋めるために力強く応援してくれた季節だから。
空気が澄む冬が好きだ。成幸くんと結ばれた季節だから。
つまり。わたし、古橋文乃は、成幸くんのおかげで毎日が宝物になってしまった、ということ。
そして。
ある、夏の日のことだった。
わたしの宝物が、また一つ増える、素敵な出来事の、お話。
第一章
「あれ……?」
そこは、一ノ瀬学園の教室だった。
「おはよう、唯我!」
「あ、うん、おはよう」
見慣れたクラスメイトたちと朝の挨拶を交わす。
懐かしさよりも。何か、変だ。違和感が、ある。でも、それがどういうことかはよくわからない。
「唯我君!」
胸がときめく。この声は、俺の大切な人のそれだから。少し呼ばれ方に違和感はあった。
振り返る。そこには文乃がいたのだが。
「ごめんね、今日の勉強会は用事があるから、行けそうにないんだ……。もしかしたら、しばらくこないかも。でも、まあ、大丈夫。心配しないで。うるかちゃん、りっちゃんによろしく!」
その隣には見たことのない男子学生。2人は親密そうな雰囲気を出しながらその場を立ち去っていった。
しばらくこないかも、という言葉。
必要以上に仲の良さそうな男子学生。
胸騒ぎが、した。
放課後の図書館に場面が変わる。
「最近古橋、勉強会に来ないな……」
文乃はいない。うるか、緒方と勉強しながらふと呟く。
それを聞いて、うるかと緒方は気まずそうな表情になる。
「文乃っち、最近彼氏ができたみたいだよ。あちこちで噂になってるけど、成幸知らないの?」
「文乃はもう理系は諦めて、文系の大学を目指すと言ってました。もう頑張らなくていいや、そう笑っていましたが」
「え……」
足元が崩れ落ちていく錯覚。
背筋が凍る、どころではない。
体中の血がマイナスを超えて沸騰するような。
心臓がとまるどころか、丸ごと瞬時になくなったようで。
俺のいる場所は、どこだ?
俺の知っている、古橋文乃は、どこだ?
絶望の味がする。
「うわああああっっっ!!!」
そこで目が覚めた。夢、夢、夢だよな!?
慌てて枕元の携帯の日付を見る。
20xx年7月。
俺は、ちゃんと、大学生になっていた。
汗がひどい。
それ以上に。
不快で、不安で、ぞっとするような、夢。
縋るように、携帯のメッセージを見る。文乃の名前を慌てて探す。
……見つけた。昨日の日付だ。
『成幸くん、おつかれさま!最近課題が多くて大変!成幸くんも大学の勉強とバイト、無理しすぎないように!ただでさえ、頑張り屋さんなんだから。ね、今度のデート、楽しみだよっ♪」
強張っていた身体と心が、ようやく、ふっと落ち着いた。
シャワーを浴びたかった。熱いくらいのもので。汗と一緒に、まとわりつく嫌な気持ちも流し落としたかったのだ。
第二章
俺は大学の二年生になっていた。
ようやく講義の質・量になれはじめ、なんとなくペースが掴めてきた。もうすぐ長い夏季休暇に入りかけていて。講義によっては、すでに前期の試験や難題のレポートの情報がちらほらと上がり始めていた、初夏のこと。
今、アルバイトを二つ掛け持ちしている。大学の近くのアイスクリーム屋さんと、家の近くのスーパーの品出し。前者は大学の講義の合間、後者は平日の早朝だ。まだ実家暮らしではあるし、授業料や教材代に充てるお金は、親父の貯金のおかげで十分ではあるものの。
いろんな経験を積んで、少しでも人間の幅を広げたい。そう思っているから。どちらのバイトも後期からは切り替えるつもりでいて、了解はもらっているところだ。
さて。
今日は、アイスクリーム屋だ。
「いらっしゃいませ!」
「えっと……サナ、どれにする?」
「タカくんと同じの!」
「おまえいっつも真似するなあ」
「だって一緒がいいんだもんね!」
じゃれあいながらアイスを買いに来た2人。制服を見るに、高校生のようだ。お客さんの半分くらいは、カップルなのだ。結局二人は、俺が勧めたバニラとオレンジシャーベットを二つ重ねた組み合わせのものを選び、近くの公園に歩いていった。いまからアイスを食べながら、楽しくおしゃべりをするのだろうか。
今日もお客さんが多い。ようやく客足が途切れた時だった。
「唯我君、いつも頑張ってもらってありがとうね」
店長さんだ。大学のOB。シフトには柔軟に相談に応じてくれるし、面倒見もいいし、良い人だ。
「いえ」
「最近、遊んでるのかい?ほら、自慢の彼女と」
冷やかされる。
一度文乃が遊びに来てくれたことがあって。少しお店がざわついた。美人がきた、と。
「あの。成幸くんの、知り合い、というか。ええと。いわゆる、彼女です」
そう文乃が言ってくれると、もう大騒ぎ。店長やその時シフトには入っていたバイトの同僚から、散々いじられたのだった。
「まあ、ぼちぼちです」
「大切にしてあげなよ?誰かにとられないようにね!」
無論、店長の冗談であることはわかる。いつもならなんてことなく受け流すのだけれど。
「……」
今日は、流石に不機嫌にならざるを得ず。店長は、そんな俺に少し驚いたようで(確かに珍しいことかもしれない)、それ以上俺に声はかけなかった。
「ふう……」
バイトが終わり、背伸びをする。忙しかった。夏だからな、仕方ない。そして、気を張っていた部分もあり、気疲れもあった。カップルを見るたびに。文乃が、違う男と買いにきてしまうのではないか。
そんなことを考えてしまい、怯えていたのだ。
実は、文乃とは、一ヶ月くらい会えていない。
ちょうど、お互い講義や日々の宿題が立て込んでいたこともあり。
メッセージのやりとりは頻繁にあるし、電話も毎日しているのだが。
やはり、文乃に会いたい。俺に向かって笑って欲しい。
会って、その存在を確かめたい。そして。……俺がちゃんと、文乃の彼氏であることを、直接、確かめたい。
あの夢のせいで。
俺は随分気弱になっていたのだった。
第三章
今夜は、ずっと楽しみにしていた予定がある。
俺の胸は高鳴っていた。
そう、文乃とデートの日。それも久々の。
夏の星を見上げようね!ということで。
俺と文乃が結ばれた、大切な場所での星空デートだ。
待ち合わせも、直接そこにした。俺は、夏とはいえ長居すると冷えてしまうかもしれないので、薄手ではあるものの膝掛け。そして、少し熱いくらいのお茶を水筒にいれる。あとは、広めのレジャーシートと、お菓子を少し。そんなものを用意した。
俺は、待ち合わせの時間よりも30分ほど早く到着してしまった。急く気持ちはあったが、体は、もっと急ぎたかったのかもしれない。
文乃はまだ到着していなくて、先にシートを広げて、座る。山あいだかか、そこまで熱くはなく。むしろ、涼しいくらいで。なによりも。
「満天、だな……!」
見上げた夜空の星の輝き具合といったら!文乃の喜ぶ顔を想像して、思わずにやけてしまった。
そこで。
なぜだろう、あの嫌な夢のことがまた頭をよぎってしまった。今から、素敵な時間を過ごすというのに。
文乃は、来てくれるよな。
そんなことが、頭の片隅から、もくもくと、持ち上がってきそうで、
はあ、とため息をついてしまう。
その時だった。
「おーい、な、り、ゆ、き、くーん!」
明るく俺の名を呼ぶ、愛しいあの子の声が聴こえた。
第四章
「はあ、はあ、はあ……」
文乃は走ってきてくれたようだ。息遣いが荒い。俺はお茶を勧めて、ありがとう、といって文乃は一服する。
「成幸くんに早く逢いたくて、急いできちゃった……」
えへへ、と俺の目の前で笑う文乃は、まぎれもない本物で。俺は思わず、力がぬけそうになる。安心して、だ。
2人で並んで座り、星を見上げる。
予想通り、文乃の反応は上々で。
そのまま、面白い大学の講義の話だったり。星に関するエピソードだったり。最近食べた美味しいケーキのことだったり。バイト先の出来事だったり。他愛もないことを、たくさん語り合った。
ふと、話が途切れて、静かになった瞬間。
「ね、成幸くん」
「うん?」
「せっかく広いシートを持ってきてくれたんだから。寝転がってみない?」
そう提案してくれて、俺と文乃はごろんと寝転がる。
「これは……!」
「すっごいねえ……!」
より、星降る夜のように感じられてて。
これは、素晴らしい景色だ。ありふれた言い回ししかできないけれど。こんなシーンを好きな人と共有できて、幸せだと思う。
その時。
「……成幸くん、最近、何かあった?」
文乃は、やはり、鋭い。表には出していないつもりだったが。察しのよい彼女は、気づいてくれたようだ。
少し、いうのを躊躇したが。……吐き出さずにはいられずに。
「あのさ。本当にカッコ悪い話なんだけど」
いいよ、気にしないから、と目線で文乃は先を促す。
「高校生の頃。文乃に俺じゃない彼氏がいて。一緒に夢を目指すこともできなくなる。そんな夢を、みてしまって」
「……そんなわけないのに。怖くなってさ」
俺の右隣に寝転んでいた文乃が、そっと手を繋いでくれた。あたたかい。
「……成幸くん、空を、見て」
「ん」
「あの星の大きな流れ。天の川、だよ」
「ああ、そうか!メジャー過ぎて気がつかなかったよ」
「織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が、天の川。二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことができる」
「七夕、だな」
「もしも、だよ」
「うん」
「わたしと、成幸くんが、遠距離恋愛とかになって、年に数回しか会えなくなったとしても」
「想いあえているから、わたしは平気」
空を見上げながら、文乃の独白は続く。
俺は、静かにその話を聞いていた。同じように、天の川を見上げながら。
「わたしが好きだと伝えて」
「成幸くんもわたしのことを好きだと言ってくれて」
「こんなに素敵なことは。幸せなことは、ないんだよ」
「想いあえている証明は、それで十分」
「わたしは、何があっても」
そこで、文乃がこちらに視線を向けてくれて、俺も目をあわせる。柔らかく、文乃は笑顔で。でも、その視線は強くて。
「あなたの『好き』は、わたしのもの」
「わたしの『好き』は、あなたのもの」
「あなたを愛してる」
その言葉は、あまりにまっすぐで。
俺が持っていたつまらない劣等感みたいなものは、雲散霧消したのだった。
おわりに
手を繋いで、互いを想う気持ちを確かめながら、俺と文乃は星を眺めている。
その時、流れ星だ!
「文乃」「成幸くん」
お互いに声を掛け合って。
重なった言葉に、お互い笑みを見せる。
もう一度、と文乃が呟き、
「大好きよ」
そういって。文乃は、俺に口づけをする。優しい、キスだった。
照れた表情の文乃は、俺の心を満たしてくれるし、かき乱してもくれる。
愛しすぎて。
俺も、文乃にお返しの口づけをする。少し、長い、キスを。
夏の日の、素敵な思い出が増えた。
目の前の最愛の星に。
空に数多ある星の数ほど、俺は彼女に恋に落ちるのだった。
(おしまい)