【はじめに】
気になる人がいる。
私は小学校の教師をしている。3年目、まだまだ新人だ。とはいえ、目の前の子供たちに向き合う以上、それは言い訳にしかならないから、日々がむしゃらだ。そんな私に、ずっと親身で色々教えてくれる、先輩教師。
唯我先生。
彼もまた、ベテランというほどの年数を重ねているわけではない。たしか今年で6年目、だったと思う。
でも、とても生徒には人気があるし、同僚たち、ベテランの先生たちも含めて信頼も厚い。
優しい。でも、人並みのものではなくて。人に寄り添える、というのか。どんな生徒にも、一人ひとりと向き合いながら、それぞれの力を引き出せていると思う。先生の才能ってこういうものなのかな、とうらやましくもある。私は毎日失敗と反省、後悔ばかりだから。
でも、そんな私に唯我先生はこんな言葉をかけてくれた。
「瀬川先生、失敗なんて全部伸びしろなんですよ。瀬川先生は俺よりもずっと吸収力があるんですから。明日の自分を楽しみにしましょう!」
とても包容力のある笑顔をしながら。
学校の先生たちというのは、当たり前だが、人間力のある人は多いのだ。だから、励まし方も上手い人が多いのだけれど。
ことさら、唯我先生にかけられたからだろうか。私はその言葉を、拠り所にしているのだ。
気になる人、ではあるのだが。男と女のそれか、と言われるとそこまでではないと思いたい。でも……唯我先生と話していると高揚している自分は、隠せないのだけれど。
しかし、問題は。
唯我先生は結婚していて。
奥さんも、とびっきりの美人らしい、ということ。
それを乗り越えて、というまで、恋愛感情を育むには、少し私は大人になりすぎていて。
多分、それ以上私は踏み出せない、というか、踏み出さないだろうな、と思う。
少しだけ、ため息をつく、私なのだった。
【第一章】
成幸くんの帰りが、遅い。
もう、夜の11時を回ろうとしていた。
今夜は同僚たちとの飲み会があるのは知っていて。たぶん遅くなるから先に寝ててもいいよ、とは言われていたけれど。いつも9時を回る時には連絡を必ずくれているのに、それもなく。
何かに巻き込まれてなければ良いのだが。そんなことを自分で思い立ち、逆に心配が募ってしまう。
その時。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。オートロックなので、マンションの入り口からだ。成幸くんなら鍵を持っているのでそんなわけはないのだけれど、もしかして、と思い応対する。
「はい、唯我です」
『夜分にすいません、唯我先生の同僚の、瀬川と申します。会合で唯我先生が酔い潰れてしまって……』
「ええ、大変っ!あ、下まで迎えに……」
『奥さんダメですよ!夜も遅いんですから。ご自宅の玄関まで、唯我先生を連れていっても、大丈夫ですか?』
「じゃあ……ごめんなさい、よろしくお願いします!」
無事みたいで良かった……。でも、いつも酔い潰れることなんてないのにな。大丈夫かな。そんなことを考えていたら、再びインターホン。
「はい、唯我です」
『瀬川です。あ、私一人です、男の同僚はエレベーターの前で待たせてますから』
細やかな気遣いができる人だな、と思った。メイクをしているわけのない時間だし、女一人。例え成幸くんの同僚とはいえ、たしかにこの時間で男性と向かいあうにはかなりの勇気が必要だから。
「成幸くん……よかったあ」
酔っ払っているものの、ようやく成幸くんに会えて、わたしは心底ほっとする。
「たらいまあ……」
そう言って、成幸くんは玄関に倒れ込んでしまった。
「主人が、本当にご迷惑おかけして……すいませんでした」
そこで、ようやく成幸くんをここまで運んでくれた、瀬川先生にお礼を言うことができた。
髪は肩に少し届くくらい、きれいな茶色だ。優しそうな雰囲気で、可愛らしい人だった。まだ若くて。身長はわたしより少し低いくらいだろうか。……胸がおおきい……。……と。余計なことを考えてしまう、大恩人にも関わらず。慌ててわたしは余計な考えを打ち消して。
その時だった。瀬川先生に話しかけられたのは。
【第二章】
「あの、唯我先生、お酒弱いわけじゃないんですけど……同僚が悪酔いしちゃって、それに付き合わされるうちに飲み過ぎてしまったみたいなんです。きつく言っておいたんで、反省させておきますから」
「成幸くん……主人が断らないのもいけないんですよ。ごめんなさい」
噂に違わぬというか。
今、すっぴんだよね!?と思ってしまった。
唯我先生の奥さん。
びっくりだ。いくらなんでも美人すぎる。女優さんが目の前にいたらこんな感じだろうか。
髪は長くて、本当に綺麗だし。目は大きいし鼻は高いし唇の形も整っていて。優しそうで、物腰も柔らかで。いくらなんでも……という感じ。
「いまさらですけど……主人がいつもお世話になっていて。仕事も楽しそうなんです。同僚の皆さんが良い方ばかりみたいで」
「瀬川先生のお話もしてくれますよ」
私のこと……?気になってしまう。
「いつも一生懸命で、頑張るやつで。負けてられないんだよって」
たぶん、それも本当のことなんだろう。でも、この人は、気遣いでそんなエピソードを教えてくれるのだ。いい人。
それなのに。
私の心の裡で。黒い何かが、首をもたげはじめていた。
私と唯我先生の時間を何一つこの人は知らないくせに。私がどれだけ唯我先生を慕っているのか知らないくせに。私がどれだけ……恋心を抱かぬよう、押さえつけているのかを、知らないくせに。何を上から目線で言ってくれているんだろう、と。
もう一つ。唯我先生は、ここにくる途中、ずっと奥さんの名前を口にしていた。ふみの、ふみの、ふみの。
愛して、愛されている。
だけど、だけど。
いつもなら理性で抑え込めるのに。お酒のせいにしてしまうけれど、とめる術がない。
『嫉妬』、だ。
絶対に勝てないよ、でよいはずなのに。
なんで目の前の女の人は、私が気になる男の人と一緒にいることが許されているだけでなくて、容姿も良くて、性格までよくて。
ずるい。
そう思ってしまい。なんの脈絡もなく、突然言葉をねじ込んだ。
「私、唯我先生のこと、好きなんです」
「え……?」
「唯我先生も、わたしのこと、好きだっていってくれてますから」
「……あ、いえ、何でも。あ、それじゃ、失礼します」
最低だ、私。
動揺している奥さんから慌てて視線を剥がして、逃げ出すように私はその場を後にしたのだった。
【第三章】
るーん、るるー、るーんるるるるー……♬
るーんるるるるるー、るーるー♬
るるるーるーんるーん……♬
鼻歌が、聴こえる。
優しい、トーンで。
聞き覚えは、ある。
愛する文乃が大好きな曲。
「ムーン・リバー、だな」
呟く。
俺は、ソファの上に倒れ込みながら、文乃に膝枕をしてもらっている姿勢になっていて。
俺の呟きに気がつき、目が覚めたのかな、と文乃がにっこり笑ってくれた。
そこで、俺はようやく、これまでの経緯を思い出して、慌てて身体を起こそうとしたが。
文乃が、身体を起こすのをそっと押し留めた。
「こら。お酒の飲み過ぎで、頭痛いでしょ。無理しなくて、いいよ」
優しく、怒られる。
「文乃、今夜はごめん」
「いいんだよ。そういう日もあるもんね。それより、今は。少し、成幸くんのこと、独り占めさせてよ」
と、文乃は不思議なことを言う。
「……独り占めも何も、俺は文乃の旦那で、文乃は俺の奥さんだろ?」
「そうなんだけど。……思うだけでは伝えられないことも、あるから」
「?」
「時々、不安になるの」
「成幸くんのことを好きな女の人がいたらどうしよう、って」
俺は反射的に笑いながらそんなことない、といいかけたが、文乃の真剣な表情を見て開いた口を閉じた。
文乃の言葉の続きを待つ。
「成幸くんは、わたしのことを愛してくれている」
「自惚れているって笑ってくれていいんだけどね。わたしは、そう信じてるし、ずっと信じていることができる」
「わたしも、そうだもの。わたしは、成幸くんのことを愛してる。ずっと、ずっと、変わらない」
「だけど」
「成幸くんは優しくて素敵だから。周りの女の人が、好きになってしまうことだって…あるんじゃないか、って」
「難しいんだよね。そんな成幸くんが、わたしも好きになったから、わかるんだ」
「だけど……わたしの、成幸くんなんだから。それは……言葉にして伝えないと、ね」
「ムーン・リバーを渡るのは、2人だけ、なんだから」
そういって、文乃は何かを決意したようだった。
俺は、右手を伸ばして、文乃の右の頬に手のひらをそっと添える。あたたかい。
「何か、あったんだな…?」
「少し、ね」
文乃は、俺の右手を両手でぎゅっと包み込んだ。
その寂しげな仕草が愛しくて。
俺は、ゆっくり身体を起こすと、文乃をそっと抱きしめる。
「不安にさせてごめん」
「ううん……。あのね。女心の実践問題。不安な妻を安心させるためには?」
悩むはずもない。俺は、文乃の顎に少し手を添えて、そっと目を瞑る愛しい妻に、優しくキスをするのだった。
【第四章】
一晩中、後悔の底にいた。
私のいやがらせでしかない、なんの根拠もない言葉で、唯我先生と奥さんの幸せな生活にさざ波を起こすようなことをしてしまったのだ。
どうしよう。
あの美しい奥さんが、すごく怒って唯我先生を問い詰める。唯我先生は心当たりなんてあるはずがないのだから、否定するだろう。でも。女性からすれば、火のないところに煙はたたない、であるわけだから、その否定を証明せよ、と迫るだろう。もともとなにもないのだ、説明はするけれど。人の心の裡など、証明できるはずがなくて。
つまりは、泥沼だ。疑心暗鬼に陥ってしまって、仲の良い2人に、しばらく隙間風を吹かせてしまうことになりはしないか。
申し訳なくて申し訳なくて。私は頭を抱えていた。
次の日、いつも通り出勤して。飲み会の翌日は、なんとなくいつもより職場のみんなと仲良くなれた気がしてその雰囲気は嫌いではないのだけれど、今日はそれどころではない。
「おはようございます」
「あ、唯我先生、おはようございます。昨日は……本当にすいませんでした、俺が調子にのっちゃって」
「いやいや、俺も悪かったんですよ。でも、久々に学生時代ののりを思い出しました」
同僚と談笑している唯我先生。急いで捕まえて、謝らなくちゃ。
しかし。朝から唯我先生は忙しそうで、話しかけるチャンスを逃してしまい。
そのまま、お昼休みになってしまった。
その時、私にとあるお客さんがきたのだった。
「あ、唯我さん……」
ぺこり、と頭を下げたその人は。唯我先生の、きれいな奥さん。怒っている感じではなく。職員室が少しざわついていて、凄い美人だけど誰?、知らないのか唯我先生の奥さんだよ、みたいな話が聞こえてくる。
「あの、応接室、借りていいですか?」
「空いてると思うよ、どうぞー」
そして、ちょっとしたお客さんがきたとき用の部屋に案内する。
私は緊張していた。噛み砕いて言えば、びびっていた。ドラマみたいにののしられるのだろうか。
きちんとお化粧をして、センスのいい服装をしている唯我さん。その美しさが、いまは鋭い刃にも見えてしまう。
そんなことを思い、でも、最初に謝らなくちゃ。でも、先に口を開いたのは彼女だった。
「昨日はご迷惑おかけしてすいませんでした。つまらないものですけれど、これ、お詫びの品です。皆さんで召し上がってください」
そういうと、包装されたお菓子の箱を渡される。デパートで人気の洋菓子屋さんのものだ。
「いえいえ、こちらが悪かったんですから!いただけませんよ」
「いや、渡すまで帰れませんから。お願いします」
「そこまでおっしゃるなら……」
唯我先生の体面もあるしなあ……とも思い。わたしは、しぶしぶ受け取る。
その時。
「というのは、口実です」
唯我さんの雰囲気が、少し変わる。出鼻をくじかれていた私は少し狼狽える、そう、私は謝らなくちゃいけなかったんだ。
「瀬川先生と、お話がしたくて」
唯我さんは、笑っていて。その目も柔らかい印象のままで。私は拍子抜けする。
「昨日のあのセリフのことは、主人には話していません」
少し、ほっとしてしまう自分がいて。でも。
「瀬川先生、昨日の夜、嘘つきましたよね」
びくっとしてしまう。すぱっと斬られたかのように錯覚する。その言葉の切れ味たるや。
「成幸くん、主人が、あなたのことを好きだと言っている、って」
「あなたが、主人のことを好きなのかどうか、それはわたしにはわからない」
「でも、少なくとも、主人がわたし以外の人を好きになることはありません」
すごい自信のある言葉だった。でも、そこには揺らぎようのない確信が感じられて。何者にも疑いの余地を抱かせない、そんな強さが、あった。
「だから、それは嘘」
【第五章】
唯我さんの言葉は続く。私は彼女の伝えたい言葉を黙って待つ。それが、私がいますべきこと、だったから。
「……わたしが成幸くんのことを好きになったとき、彼を慕う女の子はほかにもいたんです」
「素敵な子ばかりでした」
「それなのに。彼はわたしを好きになってくれた」
「星のように、数多ある人の中から……わたしを選んでくれたんです」
「わたしは、成幸くんを見つけた」
「彼は、成幸くんは、わたしを見つけてくれたんです」
「お互いを、最愛の星として」
言葉に込められた思いは。言い方はあくまで柔らかいのに。とても重くて、強くて、激しい。これ以上ないくらいに。私も女だから、わかる。わかって、しまう。
「少し、あなたに厳しいことを言います」
そう言われて、さらに身構えてしまう。
「あなたは、あなたの最愛の星を見つけてください」
「あなたのことを想う人が、必ず見つけてくれるから」
……聴いただけでは、厳しくもない?いや、そんなことはなくて。とても、とても、とても。厳しい、叱咤激励だった。
女として、私だけの、愛する、愛される人を見つけなさい。
完敗だな、と思う。
「わたしが伝えたいのは、これだけです。言葉にしなければ、伝えられないことは、世の中にはたくさんありますから」
そう言って、唯我さんは、きれいに、だけどその分怖いくらいに、笑顔を見せてくれたのだった。
私は、両手を挙げて降参したいくらいだったけれど。
かろうじて。
「ありがとうございます」
そう返すのが、精一杯だったのだ。
でも。
唯我さんを見送ったあとで、ふつふつと湧いてくる気持ちがあった。
絶対に、あの人に負けないくらいに、幸せになってやる。
そういう、強い気持ち。
週末に、髪を切ろう。そうも思う。気分を変えて。私は、前に進まなければ。
「負けるもんか!」
明るく、そう呟くのだった。
【終わりに】
「あれ、ワインか。平日に、珍しいな」
「軽い白ワインだから。少しくらいなら、一緒に飲めるかな、と思って」
家に帰ると、食卓にワインと軽いおつまみが置いてあった。休日に文乃と飲むことはあるのだが、平日はあまり記憶がない。
ただ、少しだけ、昨日から文乃がおかしい、とは思っていたので。付き合おう、そう思ったのだった。
風呂から上がり、さっぱりしてから。
『乾杯』
飲みながら、他愛もない話をする。美味しそうな定食屋を見つけたからまた行こう、とか。お花屋さんの店員さんとのおしゃべりのこと、とか。
そんな中で。
「成幸くん」
文乃も少し酔っているようだ。ほんのり顔が赤くて。なんだか、色気もあって、ドキッとしてしまう。
「今夜は、抱いてほしい」
文乃の表情は、真剣で。
「いっぱい、愛してほしい」
少し小さな、でもはっきりした声で。
俺は、大きく肯定の意味を込めて、うなずく。
文乃の後ろにたって、背中からそっと抱きしめる。
「愛してるよ、文乃」
そう、心から伝える。
でも、文乃は、ふるふると首を振って。
「今夜は、言葉だけじゃたりないの。愛して、証明してほし……んっ、あっ……」
それ以上、文乃に話をさせるのは、流石に男として野暮にすぎて。俺は、文乃の唇を、いつもより少し強く吸う。文乃からのお返しのキスも、いつもよりも積極的で。
夜は長い、でも、一晩で足りないくらいに、愛を伝えよう。そう思いながら、愛しい文乃を強く、大切に、抱きしめるのだった。
(おしまい)