古橋文乃ストーリーズ〜流れ星のしっぽ〜

「ぼくたちは勉強ができない」のヒロイン、古橋文乃の創作小説メインのブログです。

[x]を構成するもの即ち数式、星、愛する人である

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【はじめに】

 

わたし、文月静流には、ずっと、気になっている男の人がいる。

 

数学科第一研究室所属の、古橋零侍くん。

 

若き天才と誉れ高い、私にはとても追いつけないかもしれない人。ルックスもよく、憂いた表情もよく似合い、密かに女の子の間では人気だ。

 

古橋くんは覚えてもいないだろうが。私が書いたある論文が酷評された中で、彼だけが唯一ポジティブな評価をしてくれたのだ。
「こんな柔軟な発想は私にはできない。これより面白いアプローチがあるなら、ぜひ教えてもらいたい。批判するのなら、それくらいの引き出しはあるでしょう?」
周りへの皮肉も込めてではあったけど。この言葉をきっかけに、もっと古橋くんとお話をしたくて。

 

わたしは、数学をもっともっと頑張らなくちゃ。

 

そう決意して、日々取り組んでいるのだった。

 

明日は、いよいよ。古橋くんに、議論したい、と言って、話しかけようと思ってる。緊張するけれど…どこかにやけてしまう自分もいて。

 

少し気合いをいれて、眠りにつく。

 

【第一章】

 

俺、唯我成幸は、今度結婚することになっている彼女…古橋文乃さんの親父さん、古橋零侍さんと、居酒屋にきていた。だいぶ落ち着いたお店で、あまりこういう場に慣れない俺は少し緊張している。文乃とこういう店に入ることもないわけではないが、その時は単純に楽しく時間がすぐに過ぎてしまうので、あまりそういうことは感じないのだが。

「食前酒はシャンパンにするか。この店のは他の店よりも品揃えがいい。あとでワインも選ぼう」
「あ、はい。俺はなんでも大丈夫です」

きりっとしたウェイターさんが、すぐに用意をしてくれた。

 

『乾杯』

 

お互いグラスを少し上に掲げて、口をつけた。たしかにうまい。

「…式は一週間後だったな」
「はい。文乃も俺も、張り切ってますよ」
「…そうか」
親父さんの表情は、随分と優しいものだった。

「文乃は…幸せなんだろう。君と一緒にいる時。文乃はよく笑っている」
「いや、笑えてるのは、俺もですから。お互いそうでいられて、嬉しいです」
「文乃の母親…静流というんだが。よく笑っていたよ」
文乃のお袋さん。文乃から、話を聞くことはあった。天才的な数学者。星を文乃に教えてくれた。優しくて、よく笑って。文乃が大好きだった人。どこまで聞いてわからなかったが。
「…どんな馴れ初めだったんですか?」
「…ん?…まあ、そうそうこんな話をすることもないだろうから。酒のつまみだ。少し、話そうか」
そう言って、零侍さんは話しはじめた。

 

【第二章】

 

「古橋くん!」
「文月さん…また来たのか」
私は少しうんざりしていた。同学年で数学科の第二研究室に所属している女子。私が所属する第一研究室では、美人できさくだということで話題になっていたが、私にはその価値観がよくわからない。


なによりよくわからないのは、この文月さんの行動原理だ。週に一度、下手すればもっと多い頻度で、教科書とノートを持ってくる。そして私に質問を浴びせて議論する、ということを繰り返している。


「こういう証明のアプローチもあると思うんだけど、どうかな?」
「何度も言っているが、文月さん、それはセオリーから外れすぎている。基本に返って、こういう…」
「そうかな?古橋くんこそ、基本にとらわれすぎてると思うけど…」
今日も今日とて、議論は続くのだった。

 

「古橋、最近変わったよな」
「…?私が?そうか?」
ある日、研究室のメンバーから思わぬ言葉をかけられ、私は驚く。
「前は黙々と一人でやっていたのに、最近は俺たちが議論してるとまざってくれたりするし。後輩が悩んでたら、軽くだけど声かけるじゃん。信じられないよ」
そこで、彼は悪戯っぽい表情になる。
「文月さん効果かな?」
「…それは、プラスの意味で、か?マイナスの意味で?」
「プラスに決まってるだろ!大切にしなよ」
大切に、の意味合いがまったくわからなかったし、プラスの効果があるということが自分でもわからず、私は少し、困惑するのだった。

 

【第三章】

 

風が冷たいある冬の日のことだった。文月さんが、またわたしのところに議論をしにきた。その日もなかなか決着はつかず、長々話し続けた後で。いつのまにか、外が暗くなっていた。


「あ、こんな時間!古橋くん、ごめんね…」

文月さんはかなり申し訳なさそうだ。
「いや、こちらこそ、悪かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「…外は暗い。自宅まで、送ろうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


…私は。説明がつかないことを口にしていた。言葉になり、自分の耳にはいってきても、それが本当に自分なのか自信がないほどに。まったく、論理的ではなかったからだ。

 

だが。その時の古橋さんの表情。驚いたあとに、満面の笑顔になり。ぶんぶんとうなずく仕草は…とても喜んでくれていることくらいは私でもわかり。

 

「いこうか」

 

私は慌てて目を逸らした。そうしなければ…何か、感情が動き出してしまいそうだと思ったから。

 

古橋さんの家は、大学から徒歩で通える距離だった。歩いて15分くらい。身近にある大学なので、昔から行きたかったんだ、と教えてくれた。古橋さんは、とても饒舌だった。いつも以上によくしゃべり、ころころ表情が変わり。わたしはなんとなく居心地が悪い気分になってしまう。気を悪くするわけでは全然ないのだが…私がこの人の隣にいていいのだろうかと、ふと思うような。その時だった。

 

「あ…シリウス!」


「?」


私がまったく知らない単語だ。表情に出ていたようで、古橋さんがフォローしてくれる。
「星の名前なんだ。冬の大三角形っていうのがあってね…ほら。見えるかな、明るい星」
目を凝らすと、確かにそこにあった。周りの星より、一際輝く星が3つ。
「なるほど…角度がユニークだな」
「あははっ!」
私が呟いた言葉で、文月さんは明るい笑い声をたてる。
「やっぱり古橋くんは、そう言うと思った」
「…悪かったな」
「違う違う、そういうことじゃなくて!」
「星と数学って、相性がいいんだよ」
「そうなのか」
「そうなの。私、星も好きで。大学の勉強で行き詰まったり、嫌なことがあったときとか、それだけじゃなくて、元気がほしいときも。よく、見上げてるんだ」
「…」
私も、星空を見上げている文月さんと視線をあわせる。意識してなかった世界が広がったのか。ふと、そのことに気づく。隣にいるこの女性。

 

視線を彼女にふいっと向ける。

 

彼女の横顔は…私には少し、眩しすぎるような気がする。

 

胸の鼓動が早くなる。

 

その理由は、私にはわからない。

 

【第四章】

 

「海外留学ですか?」
「ああ。優秀な学生を派遣してほしいということで。古橋君、君が我が研究室の候補になった」
「もちろん、君の意向もあるだろうから。一週間後までに、返事をしてほしい」
「…わかりました」


講義が一通り終わり、そのあと。教授に呼び出されたら、そんな話だった。部屋を出る。幸い、英語は多少自信はある。海外で数学の最先端を学び、優秀な学生たちとも間で成長もできるだろう。断る理由は何一つない。…ない。そのはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『古橋くんっ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜだか、脳裏に浮かんだのは、文月さんの笑顔だった。

「ふーっ…」

そのイメージを忘れるように首を振り、自分の研究室に向かった。

 

…向かっていったつもりだったのに。私は…人を探していた。自分でも、理解できない衝動に駆られていた。わからない。でも。


「すまない。文月さんは、どこに?」

 

第二研究室を覗き込む。あ、古橋君だよ、今日もかっこよくない?そんな声が聞こえてきたような気もするが、今はそれどころではない。
「あれ、さっきまでいたと思ったけどな…。そういえば古橋君、留学にいくんだって?さっきうちの研究室でも話題にしてたんだよ!」
「そう、か。失礼した」
まだ話し足りなそうな相手には目もくれず私はその場を立ち去る。

 

『元気がほしいときも』

 

その言葉がふと頭をよぎり。私は唯一屋上に出られる講義棟に向かうことにした。

 

「文月さん」

 

見つけた。案の定、彼女はそこにいた。

 

「古橋くん…」

 

文月さんは少し沈んだような表情に一瞬見えたが、すぐに笑顔になった。

 

「留学にいくんだって?さすがだね!気をつけて、いってきてね!帰ってきたら、またお話しようね!」

 

どこか、彼女は変だ。

 

「あはは、わたしも、頑張るから!古橋くん、少しぶっきらぼうなんだから、もっと笑ったほうがいいよ!それにね、それにね…」

 

そこで、彼女は言葉に詰まった。とても…複雑な表情をしていた。笑っているのに、辛そうで。口角を無理にあげようとしているけれど、うまくいっていない。…少し、泣き出しそうで。

 

「………」

 

私は…その顔を見て。ようやく、[x]に代入されるべき答えに気づいた。遅すぎて。今更取り返せるかわからなかったが。伝えるべきは、伝えなければ、そう思い。

 

「文月さん」

 

「eiπ + 1 = 0。わかるか?」

 

「…オイラーの、等式…?」

 

「私は、この数式が、少し苦手なんだ。意味はもちろんわかる。だが、美しいと表現されることが多く、それに違和感がずっとあるんだ」

 

「数式に、そんな言葉は、似合わない。あくまで、数字のみで語られるべきだと」

 

「だが…。最近、いや。少し前から。数字にも、言葉が、あるような気がしているんだ」

 

一気にそこまで話して。そこで息を吸う。文月さんは真剣な表情で聞いてくれている。

 

「君だ。君と話すようになってからなんだ」

 

「だから、なんだ。その、」

 

そこから、うまく言葉が出ない。ありふれているような言葉を伝えるべきなのかもしれないが…。そこで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたしは、古橋くん、あなたが、好きでした」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!」

 

本当に、泣き笑いの顔を彼女はしていて。

 

「数学に一生懸命なあなたが、好きで。だから、わたしも、数学、頑張って。一緒に、たくさん、お話したかったの」

 

「いつも、邪魔になってるかもしれない、とは思ってた。でもね…そばにいたくて」

 

「楽しい時間を、ありがとう」

 

「だから、」

 

さ、ではじめる、別れの言葉を言わせる前に。

 

「私には君が必要だ」

 

馬鹿なセリフだった。根拠も論理的な美しさも意味すらない、めちゃくちゃなセリフだった。

 

「私は数学しかない人間だ。そこに、君が現れた」

 

「君と数学の話をするのは楽しい。それだけでなくて…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「君と、もっと一緒にいたいんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


文月さんは、驚いて、そして、泣き出した。

 

私はどうしてよいかわかるわけもなく、おろおろするしかない。

 

「どうしたんだ、嫌だったなら撤回する、泣かないでくれ」


そんなわけないじゃない、といい、


「嬉しくて………」


えへへ、と、涙を流しながら、文月さんは心から幸せそうな笑顔を浮かべている。不思議な表情だったが。ずっと、私は本当は知っていた。

 

 

 

 

 

彼女の笑顔が私はずっと、好きだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

【第五章】

 

「…結局、私はそのあと留学に一年いったんだ。しばらくは遠距離恋愛だったよ」
「せっかく結ばれたのに!どうしてですか?」
「静流が背中を押してくれた。数学を頑張るあなたが好きだから。わたしはずっと待ってるから。そう言ってくれてな」
零侍さんは流石に少し照れた表情だった。
「私は奥手だったし、付き合いはじめがそういう形でちょうどよかったんだと思う。携帯などで気軽にすぐに話せるわけではなかったが。静流はたくさん手紙をくれた。一度、留学先まで遊びに来てくれたこともあり。その時海外でゆっくりとデートしたことは、いまも大切な思い出だ」
「…素敵な関係だったんですね」
在りし日の2人が、目に浮かぶようだった。
「唯我君。君が文乃を大切にしてくれているのと同じくらい」
零侍さんは、静かに微笑む。


「私は静流を愛しているよ」


その笑顔があまりにも印象的で。お酒がはいってるからかもしれないが、俺は少しだけうるっとしてしまったのだった。

 

【終わりに】

 

一年ぶりの日本だった。
空港に降り立ち、ゲートを抜ける。

 

「零侍くんっ!」

 

「文月さん、来てくれたのか」

 

目の前には、文月静流さん。私を見るなり、駆け寄ってきてくれた。一度遊びに来てくれたとはいえ、およそ半年ぶりだ。

 

手紙のやり取りの中で、彼女はいつのまにか私を名前で呼ぶようになっていた。

当たり前だが、嫌なわけがない。


「疲れたでしょ。今夜は、零侍くんの家でごはんつくるね!」

「ご両親は心配しないのか?」

「大丈夫大丈夫、今夜は泊まるつもりだから」

「泊まるって…」


「だって…」


そこで文月さんは少し下を向いて。


「ずっと、零侍くんを待ってたんだから。しばらくは、べたべたさせてよね」


そういって、恥ずかしそうに笑い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ありがとう、『静流』」

 

 

 

 

 

 

 

 

そう素直に彼女を名前で呼ぶと。

 

弾けんばかりの笑顔になり、静流は私に抱きついてくる。体勢を崩しながらも私は彼女を抱きとめた。

 

私は、愛しい、という気持ちで胸が溢れそうになるのだった。

 

(おしまい)